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坂の上の雲 第9話「広瀬、死す」

 日本がロシアに対して国交断絶を通告したのは、明治37年(1904年)2月6日。日本の宣戦布告は同月10日だったが、すでにそれ以前に砲門は開かれた。「宣戦布告なき先制攻撃」だったわけだが、後年の「真珠湾攻撃」の場合のそれとは違う。「この時代、必ずしも宣戦布告は必要ではなかった」とナレーションで語られていたように、開戦に先立って宣戦布告が義務づけられたのは、日露戦争終戦後の明治40年(1907年)のハーグで成立した「開戦に関する条約」からである。したがって、ドラマであったように、ロシア極東総督アレクセーエフが国際世論を味方に付けるために、わざと奇襲攻撃をさせたような設定は成り立たないし、原作にもそういう話はない。アレクセーエフは、単純に日本を侮っていた。「猿に戦争ができるわけがない。」と。

 日本の海軍は、ワンセットの艦隊しか持たないのに対し、ロシア軍はツーセットの艦隊を持っていた。ひとつは極東(旅順・ウラジオストック)にあり、もうひとつは本国(バルチック艦隊)にある。この二つが合わされば、日本海軍は到底勝ち目はない。故に、日本軍としては、バルチック艦隊が来る前にどうしてもワンセットを全滅させておく必要があった。それも、自軍の艦は一隻も沈めずに・・・である。それには奇襲しかなかった。日本の戦略の主眼は、できるだけ短期間で華やかな戦果を上げ、そのあとは外交で和平に持ち込むというものであり、この主眼を外してこの戦争はまったく成り立たないというのが、政府要人の一致した考えだった。そのため、この奇襲攻撃にかける日本の思いは並々ならぬものがあった。

 日本の奇襲は、作戦としては成功した。ロシア軍がまったく油断していたのだから当然だった。成功はしたが、思ったような戦果をあげることはできなかった。全部で18本の魚雷を射ちながら、戦艦2、巡洋艦1を大破させただけで、しかも3艦とも2カ月の修理で戦列に復帰できる程度の手傷だった。その好条件からいえば、考えられないほどの貧しい戦果である。連合艦隊司令長官・東郷平八郎は、「敵の巨艦三隻に損害をあたえたり」という電報を東京に送ったが、この奇襲で、できるだけ敵艦の数を減らしておきたかった日本政府としては、期待はずれの報告だった。

 奇襲作戦には当然、二度目はない。日本艦隊は、旅順港に引きこもってしまったロシア艦隊を、どう攻撃するか頭を悩ませた。鉄壁の要塞に守られた旅順港には、容易に踏み込むことはできない。洋上の軍艦は、陸上の要塞砲と砲戦を交わしても到底太刀打ちできないというのが常識だった。日本軍としては、ロシア艦を旅順港口外に誘き出して撃つしかなく、たびたび挑発行為に出るが、ロシア軍はその挑発にはのることはなく、港内深くに引きこもったままひたすら消極作戦をとった。本国からのバルチック艦隊の到着を待つためである。日本軍としては、なんとしてもそれまでに旅順艦隊をなきものにしなければならない。そこで浮上したのが旅順港口閉塞作戦、港口に汽船を沈めてフタをしてしまうというものだった。出口を塞いでしまえば、中にいる艦隊は何の役にも立たない。敵を生きたまま、その力を封じ込めてしまう作戦だった。

 閉塞作戦を最初に立案したのは秋山真之だった。しかし、そのときは東郷に一蹴された。理由は、「実施部隊の生還が期しがたい。」というものだった。一度は廃案となったこの作戦が、ことここに及んで再び浮上したのは、もはや日本軍の作戦が行き詰っていたからだろう。しかし、このときこの非常作戦を言い出したのは、真之ではない。彼は、旅順要塞の実情がわかってくるにつれ、この作戦に消極的になっていた。しかし、日本海軍は結局、この無謀ともいえる非常作戦の実施を決する。強く推したのは、参謀のひとりである有馬良橘中佐と、戦艦朝日の水雷長である広瀬武夫少佐だった。

 広瀬はこの作戦で死を覚悟していたと思われる。彼は、一度目の閉塞船・報国丸の艦長室で二通の手紙を書いている。一通は、彼が生涯でただひとり愛したといわれる、ロシア駐在時代の恋人、アリアズナ・ウラジーミロヴナ・コヴァレフスカヤに宛てた手紙だった。その手紙の文面は、今は知るすべもない。もう一通は、同じくロシア駐在時代の友人、ボリス・ヴィルキッキ−少尉に宛てたものである。ヴィルキッキ−が旅順にいることは、彼からの手紙で知っていた。広瀬とヴィルキッキ−は、広瀬がロシアを去る際、戦争になっても互いの居場所を知らせようと約束していた。そのヴィルキッキ−に、今広瀬は返事の手紙を書いていた。この手紙の内容は、わかっている。たまたま手紙を書いているときに訪れた同僚に、その内容を話したらしい。
 「いま不幸にして貴国と砲火を交わす関係になったことはまことに残念である。しかしわれわれはそれぞれ祖国のために働くのであり、個人としての友情には少しも変わりはない。私はすでに去る九日、軍艦朝日にあって貴国艦隊を熱心に砲撃した。それさえ、互いの友情からみれば尋常ではないが、いままた閉塞船報国丸を指揮し、旅順港口を閉塞しようとしてその途上にある。わが親しき友よ、健やかなれ。」
 この手紙は通信艇に託され、数ヶ月のちに中立国経由でヴィルキッキ−の手に届いた。

 続いて広瀬は、閉塞船の船橋に横断幕を張り、そこにペンキでロシア文字を書いた。原文は残っていないが、報国丸が沈んだあとにこれを読んだロシア海軍大佐ブーブノフの記憶によると、
 「尊敬すべきロシア海軍軍人諸君。請う、余を記憶せよ。余は日本の海軍少佐広瀬武夫なり。報国丸をもってここにきたる。さらにまた幾回か来らんとす。」
 といった内容だったという。広瀬がわざわざこれを書いたのは、おそらくヴィルキッキ−をはじめとするロシア時代の友人・知人の目にとまることを想定してのものだったのだろう。そして願わくばこのメッセージがペテルブルグに伝わり、アリアズナの耳に入ることも願って・・・。

 この閉塞作戦は2度行われるが、結果は失敗に終わった。理由は夜間に行ったため正確な港口の位置をつかめなかったためとも言われるが、日中に行なっていればそれ以前に要塞砲の餌食になって、港口にたどり着くまでもなく全滅していたかもしれず、結局は無謀な作戦だったということだろう。しかし、真之が強く推したように、夜間に行ったため犠牲者の数は少なくすんだ。少なくすんだが、その少ない中に、広瀬武夫がいた。広瀬の死に様はドラマのとおり、身体ごと吹っ飛ぶ壮絶な最期だった。

 広瀬武夫は死後、日本初の「軍神」となった。「軍神」とは、軍事・戦争を司る神で、壮烈な戦死を遂げた軍人が神格化されたもの。決死的任務を敢行し、また自らの危険を顧みず、部下の杉野孫七の生命を案じて退避が遅れ戦死を遂げたことから、新聞各紙がこのことを大きく取り上げ、「軍神」と讃えた。広瀬神話は瞬く間に日本全国に広がり、国民の英雄となった。終戦後の明治45年(1914年)には、文部省認定尋常小学唱歌『広瀬少佐の歌』が採用され、その歌詞では、燃え盛る閉塞船・福井丸の中で行方不明となった杉野孫七を捜索する姿をたたえ、「杉野は何処、杉野は居ずや」と歌われた(※後記参照)。さらに昭和に入ってからは、出身地である大分県竹田市に広瀬を祀る「広瀬神社」が創建され、崇められた。

 なぜ、少佐というさほど高くない階級の広瀬が、それほどまでに英雄扱いされたのか。これにはいろんな見方があるようで、一説には、ロシアとの戦争に消極的だった世論を、政府が新聞各紙を使って操作した、ともいわれている。日本が大国ロシアに立ち向かうためには、国民一体となった戦いが必要だった。その象徴として、一般国民に近い、さほど階級の高くない広瀬武夫を神格化して崇め、国民参加の戦争という世論を植えつけた・・・などといわれている。真実はわからないが、広瀬が「軍神」と崇められたことにより、国民と軍の関係が密接になったことは事実のようだ。しかし、この話は原作小説の中にはない。

 尋常小学唱歌 第四学年用 『廣瀬少佐の歌』

 1. 轟く砲音(つつおと)、飛来る弾丸(だんがん)。
   荒波洗ふ デッキの上に、
   闇を貫く 中佐の叫び。
   「杉野は何処(いずこ)、杉野は居ずや」。

 2. 船内隈なく 尋ぬる三度(みたび)、
   呼べど答へず、さがせど見へず、
   船は次第に 波間に沈み、
   敵弾いよいよあたりに繁し。

 3. 今はとボートに 移れる中佐、
   飛来る弾丸(たま)に 忽ち失せて、
   旅順港外 恨みぞ深き、
   軍神廣瀬と その名残れど


 広瀬武夫。享年36歳。我が国の「軍神」第一号である。


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by sakanoueno-kumo | 2010-12-28 03:38 | 坂の上の雲 | Trackback(3) | Comments(4)

 

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Tracked from 平太郎独白録 親愛なるア.. at 2010-12-28 13:29
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Tracked from 早乙女乱子とSPIRIT.. at 2010-12-28 17:55
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줯ˤʤĤĤȡˡƴݡʤˡ աǥåξˡ ǤӤ溴ζӡ ֿϲʤˡϵ鷺ס ⷨʤҤ̤뻰١ʤߤӡˡ Ƥ٤ؤɸؤ ϼˡȴ֤ߡ ŨƤ褤褢ˤ ϤȥܡȤˡܤ溴 ƴݡʤޡˤˡơ ιߤ עȡ̾Ĥ ʸʾΡع溴 ξμ㤤ǵϤˤʤäϪ衣 �Ū˹⤷ƤȻפߡϥ�ĤȻפäƤ褦 ޤϤʤ� ܤƱꥹˤ衢¾ιˤ衢�εˤǤȻפäƤ� ¾ï...... more
Commented by heitaroh at 2010-12-28 13:26
歴史の浅い国というのはアメリカがリンドバーグを英雄に奉りたがったように英雄を作りたがるんでしょうね。
日本の場合、国自体の歴史は長くとも、軍そのものは出来たばかりだったでしょうから。
Commented by sakanoueno-kumo at 2010-12-28 17:35
< heitarohさん。
なるほど、そうかもしれませんね。
英雄の存在は、ナショナリズムの形成には便利な存在でしょうから・・・。
とくに、軍人の英雄というのは、自然に崇められたものではなく、何か作為的なものを感じます。
Commented by SPIRIT(スピリット) at 2010-12-28 17:58
アリアズナもボリスも、彼が死んだとき、どんな思いだったでしょう。
敵からも慕われる人徳があったのですから、軍神としては最適だったかもしれませんね。

あわせて杉野も生存説が唱えられるようになった(甘粕正彦のもとで働いていたという)。
彼自身は、オコゼ呼ばわりされて敬遠されていたようですけれども、上司の力はすごいものですね。
Commented by sakanoueno-kumo at 2010-12-29 12:21
< SPIRIT(スピリット) さん。
アリアズナは後年、広瀬を偲んでか日本に近いウラジオストックで看護婦をしていたといいますが、実話かどうかはわかりません。
軍人であるからには、常に死と隣り合わせであることは理解していたでしょうが、アリアズナにしてもボリスにしても、おそらく広瀬の死を知ったあとに手紙が届いたであろうことを思えば、その心中は察するにあまりありますね。

杉野孫七は広瀬と一緒に銅像にまでなっていたようですね(昭和22年にGHQの命令により撤去されたそいうですが)。
広瀬はともかく、杉野まで銅像になってしまって、もし生存説が本当だったとしたら、軍神扱いされているてまえ帰るに帰れなかったでしょうね(笑)。

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