江~姫たちの戦国~ 第6話「光秀の天下」
「本能寺の変」の報を備中高松城攻めの陣中で知った羽柴秀吉は、配下の黒田官兵衛や弟の羽柴秀長らと協議の上、明智光秀討伐へ向かうことを決意。それには、この高松城攻めを早々に終わらせねばならず、さらにそれには、信長落命の事実を敵方の毛利軍に知られてはならない。秀吉は、情報が漏洩しないよう備前・備中への道を完全に遮断し、毛利方の使者・安国寺恵瓊と黒田官兵衛との間で交渉を行わせ、高松城主・清水宗治の切腹を条件に和睦を決める。そして「本能寺の変」の2日後の6月4日、宗治の切腹を見届けた秀吉軍は、6月6日夕刻より兵の退却を開始、昼夜兼行で走り続け、70km離れた播磨国姫路城に8日の朝入城。ここで約1日の休養をとり再び進軍。明石、尼崎を経て12日には富田に着陣した。5日間の全走行距離、約200km。のちの世にいう「中国大返し」である。
1日平均約40km。少人数ならともかく、これを総勢25,000人ともいわれる兵が強行したわけだ。今のようにアスファルトで舗装された道でもなければ、ジョギングシューズを履いているわけでもない。これには、間寛平さんもビックリといったところだろう。これほどの奇跡を実行し得た、秀吉軍のエネルギーは何だったのか。それは、明智光秀討伐への道は、同時に「天下への道」だったから・・・などといったら、格好良すぎるだろうか。しかし、まぎれもなくその道は秀吉にとって「天下への道」だった。
本能寺にて信長を討った明智光秀は、まず、信長の居城だった安土城に入城。さらに、長浜城、佐和山城を攻略し、近江一帯を手中に収める。そして、自身の実娘・玉(ガラシャ)の嫁ぎ先である丹後国の細川幽斎(藤孝)・細川忠興父子をはじめ、大和の筒井順慶など、かねてから昵懇の諸将に援軍要請の書状を送った。しかし彼らはこの要請をことごとく拒否。光秀は自ら京へ上洛し、朝廷を味方につけようとするも、これも思うようにことが運ばず、誤算に次ぐ誤算といった状況に陥る。さらに、光秀にとって最も誤算だったのは、秀吉軍が信じられないスピードで戻ってきたこと。明智軍は、孤立無援の状態で秀吉軍を迎え撃たざるを得なかった。
6月13日、天王山と淀川に挟まれた山崎にて戦いの火蓋が切って落とされた。世にいう「山崎の戦い」である。「天王山の決戦」ともいう。明智軍1万5千。一方の秀吉軍は、3万数千~4万に及ぶ軍勢を集めていたという。双方にとって最も重要だった天王山を占領した秀吉軍は、明智軍を次々と打ち破り、戦闘開始からおよそ1時間後、辺りが夕闇に紛れる頃に戦いは終わった。秀吉軍の圧勝だった。敗れた光秀は勝龍寺城に入ったが、夜に紛れて城を捨て、本拠地である近江坂本城に向かった。しかし、その途中の山科は小栗栖(おぐるす)で落ち武者狩りに遭い、命を落とした。享年、55歳。「本能寺の変」から、たった11日後のことである。
のちの世は、これを「明智光秀の三日天下」と名づけて嘲笑する。謀反に至った経緯は同情に値するものの、その企てはあまりにも無謀で計画性がなく、結局は秀吉の天下への踏み台でしかなかったことに対して、せせら笑うのである。しかし、はたして彼の行動は本当に後世に嘲笑されるようなものだったのだろうか。
上記、秀吉軍の高松城攻めのおり毛利軍の交渉役を務めた安国寺恵瓊は、織田信長の死から遡ること10年前に、「信長之代、五年三年者持たるべく候。明年辺者、公家などに成 さるべく候かと見及び 申し候。左候て後、高ころびにあをのけに ころばれ候ずると見え申し候。藤吉郎 さりとてはの者にて候。」と、信長の恐怖政治の限界を論じるとともに、それに取って代わる人物は木下藤吉郎(羽柴秀吉)だと予言している。これは恵瓊の慧眼を示す逸話として知られるものだが、私が思うに、秀吉の才を見抜いたそれは別にして、信長の転落を予想していたのは、恵瓊だけではなかったのではないだろうか。つまり、「本能寺の変」は歴史の必然。もし、「本能寺の変」がなかったら・・・などとよく言われるが、私は、もし光秀が謀反を起こさなくても、他の誰かが結局は光秀と同じような行動を起こし、どうあれ信長の天下は訪れなかったのではないか・・・と思うのである。光秀は、たまたま歴史にその役を任されたにすぎなかった・・・と。
明智光秀、辞世の句
「心しらぬ 人は何とも言はばいへ 身をも惜まじ 名をも惜まじ」
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by sakanoueno-kumo | 2011-02-13 23:56 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(2) | Comments(9)
̵硡̵ʴְäȤϤƤʤ ƻŰƻŰʤ٤ƿΤޤޤˤäȡ ǯ̴ǯ̴ʸǯ̴ 赢층Фơ층˵ʺФᡢ٤̵˴ԤΤ ҸμλȸƤ롣 ǽѤ鷺11Ԥ졢̿ȤȤˤʤ롣 ϼȲοʹȤˤʤ롣 ǽѤΤȤʹòˤ顣äĤĤʿŤݤȤȤ볧 ǤΤȤƤ뤢ꡢ²פ뵤ϤĤλ⤫ʤΤ Ĥ⤤ĤͤƤȡʹ֤äŬǽϤФ꤬⤤顦 ۤλ̯夤ƤΤ⤽Τᤫ Ȥ館줿ΤϡǽѤκʪ...... more
第6回の視聴率は、前回の22.0%より大幅に下がって、19.6%でした。初めて20%を切ってしまい、最低視聴率でした。危惧した通りで、残念です。 光秀と江が会っただけでも、主人公特...... more
歴史ドラマとしてこの「役割論」を持ち出すのであれば、私は1の解釈でやって欲しいものだと願うのですが・・・制作サイドの意識が問われるところだと思いますし、今後のドラマの展開上での要チェックポイントだと考えます。(続きます)
むっ・・・難しい問題提起をありがとうございます(笑)。
たしかに光秀はそんな台詞を吐いていましたね。
私の言う「歴史上の役割」とは、貴兄の言われるところの1の解釈とほぼ同じで、後世からみた上での役割ですから、その時代に生きた本人の台詞でそれを言わせるのは、かえって嘘臭くなってしまうような気はしますね。
それを言うなら、「それがしは己の正義を貫いたまで・・・」といった意味の台詞を吐いてくれたほうが、歴史上の役割が伝わりますし、光秀も浮かばれたのではないかと・・・。
つづく
つづき。
2つめの解釈の役割ですが、貴兄のいわれるところとは少し違うかもしれませんが、これも有りだと私は思います。
というか、そのような都合のいい役割を果たしてくれる人物を使って物語を展開させるという手法は、時代劇に昔からある常套手段でもあります。
例えば、司馬さんの「竜馬がゆく」では、藤兵衛という架空の泥棒が竜馬の手足となって働き、竜馬に情報をもたらしたり、史料に乏しい場面の矛盾を解決したりします。
同じく司馬さんの「功名が辻」での、六平太もそうですね。
今年の新春時代劇スペシャル「二人の軍師」を先日観たのですが、そこでも、架空の人物・目薬屋の源蔵という男が、黒田官兵衛の諜報員的役割をはたしていました。
ただ、そうした役割を担う人物は、架空の人物か歴史上重要でない人物がほとんどだと思うので、そこの使い方を間違えてはいけないとは思いますが。
つづく。
つづき。
>「江が向き合う人物との間に心の繋がりが芽生え始めた頃に悲劇をぶつけてくる・・・・」
手厳しいですね(苦笑)。
これは、田渕さんのパターンなんじゃないでしょうか?(篤姫でもそうでしたね。)
物語の形成上、作者のクセはあると思いますし、これは是か否かというより、このパターンが好きか嫌いかの話だと思います。
>主人公(脚本家)の思想信条はいついかなる場合でも基本的に「是」
これも難しいですね。
仰りたいことはわかるのですが、これも結局は好き嫌いの問題じゃないでしょうか?
それがあまりにも押し付けがましく感じられると、ウンザリしますけどね。
作者として伝えたいメッセージがあって、それを主役に託すというのはある程度仕方ないと思いますが、そこは上手くやって欲しいところですね。
視聴率と作品の善し悪しは別物だと私は考えます。
だって、「坂の上の雲」の第9話なんて、10%を切ってましたから・・・。
私はむしろ、史実に基づいて徹底的に真面目に作ったものほど、視聴率は下がる傾向にあると見ています。
いや、いろいろと厳しいことを書いているかも知れませんが、「ストーリー・テラー」として見た場合の田渕氏には注目していますよ(そして、田渕氏と本ドラマに対して、史実云々を言うつもりももはやありません・・・・・(笑))
ストーリー・テラーとして私が敬愛するのは「浅田次郎」氏であり、彼の作品である「壬生義士伝」「シェラザード」は本当に巧いと思います。しっかりとした歴史の教養に裏打ちされた物語作りは、舞台背景となる時代の息吹を視聴者に存分に味あわせつつも、その計算されつくしたストーリー進行は、最後に本当に心地の良い(少し変な表現ですが)涙をさそって、本当にお腹いっぱいになります。「江」も最終的にはこういった境地に視聴者を誘ってくれるといいのですが・・・・そういった点では彼女の「腕前拝見」といったところです。夜遅くまで、長々とすみませんでした(苦笑)
>歴史の教養に裏打ちされた物語作り
私も本当は、それが一番望ましいと私も思います。
ただそれは、先述した時代劇スペシャルのように、数時間に凝縮された物語であれば可能なことなのでしょうが、1年間という長いスパンで描いていく大河では、創作部分に頼るところが大なわけで・・・。
今回で第6話になりますが、本稿で私はまだ一度も主人公・江のことについて触れたことがありません。
だって、彼女の少女期の逸話なんて、なんにも知らないですから(苦笑)。
そんな人物が主役の物語ですから、彼女の言動はすべて創作、つまり、作者の思うがままとなるわけです。
これは、作者の責任大ですよね。
江という女性の今後の人物像が決まると言ってもいいですから。
視聴者の共感を得ることのみを重視しすぎて、この時代の女性としてはあり得ない人物像を作ってしまうことは、避けてほしいですね。