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JIN -仁-(完結編) 第1話

 一昨年に大ヒットした、TBSドラマ『JIN -仁-』の続編、『JIN -仁-(完結編)』が始まった。幕末史が大好きな私としては、当然、楽しみにしていたわけだが、といってもドラマは漫画を原作としたオールフィクションの物語。毎週、大河ドラマのレビューを起稿しているように、ここで私が歴史についてのウンチクを垂れるのも無粋なことだと思い、純粋にドラマを娯楽として楽しむため、このドラマについて起稿するつもりではなかった。・・・が、あまりにも面白すぎて、気が変わった。毎回起稿するかどうかはわからないが、とりあえず第1話について、少しだけ私のウンチク話にお付き合い願います。

 ドラマの舞台となっていたのは、元治元年(1864年)7月19日に京都の町で起きた「禁門の変」。別名、「蛤御門の変」ともいわれるこの事件は、前年の「八月十八日の政変」(参照:「八月十八日の政変」と、幕末における長州藩の役割。)で京都を追放されていた長州藩が、尊皇攘夷派の勢力を取り戻そうと挙兵し、幕府(会津藩・桑名藩)薩摩藩の連合軍を相手に、御所の近くの蛤御門付近で交戦した事件のこと。結果は長州軍の惨敗に終わり、同藩は久坂玄瑞をはじめ多くの有能な人材を失うこととなる。この戦いはわずか1日で終わったが、落ち延びる長州勢とそれを追う幕府勢の放った火で、晴天続きで乾燥状態にあった京都の町は、たちまち火の海となった。その戦火は3日に渡って燃え続け、堀川と鴨川の間、一条通と七条通の3分の2が焼き尽くされた。「甲子兵燹図」に描かれたそのさまは地獄絵図のようで、命からがら逃げおおせた人々も,山中から呆然と市中の火の海を眺めるばかりであったという。焼失戸数は4万2千戸ともいわれ、上記、「禁門の変」「蛤御門の変」といった呼び名は、のちの明治政府がこの戦いをなるべく小さくみせるためにつけた名称で、当時の呼び方では、干支をとって「甲子(きのえぬ)の戦争」といわれたそうである。ドラマの主人公・南方仁が訪れた京都のまちは、そんなときだった。

 長州藩きっての秀才であり、過激な尊皇攘夷論者だったとされる久坂玄瑞。しかし、ドラマのとおり、この戦いには自重論だったという。しかし、同藩・来島又兵衛をはじめ進発論に押し切られてやむなく兵を率い、一時は好戦するものの力及ばず、最後は寺島忠三郎と共に鷹司邸内で自刃する。享年25歳。

 ドラマ中、死を覚悟した久坂が、思いとどまらせようとする坂本龍馬に言った台詞。
 「攘夷などクソくらえだ。攘夷など本気で信じとる奴がいたらアホじゃ。長州はアホの集まりじゃ。私はこの国をひとつにしたかっただけじゃ。日本は外敵に狙われている。外国に真に立ち向かうためには、まずこの国が一つにならなければならぬ。でなければ太刀打ちなど出来ぬ。それを乗り越え、ひとつに出来るものが、尊王であり、攘夷であると思った。ひとつになり得るきっかけでさえあれば良かったのだ。・・・だが長州は、熱くなりすぎた・・・。」
 攘夷はこの国をひとつにするための手段だったという。この考えは、当時の“攘夷論”を掲げた指導者の共通した見識だったと私も思う。おそらく久坂ほどの明敏な頭脳の持ち主であれば、攘夷が現実的でないことはわかっていただろう。しかし、人を束ねるには目的意識が必要だった。それも、できるだけ勇ましく過激な目的の方が、人はついてくる。それが、“尊皇攘夷論”だった。しかし、下級層の志士たちにとっては、“尊皇攘夷論”はあまりにも麻薬性が強すぎた。やがて彼らは、無謀な自爆行為へと突き進んでいく。それが、久坂の言う「熱くなりすぎた」である。

 昨年の大河ドラマ『龍馬伝』では、そのあたりが上手く描かれておらず、攘夷論者は純粋に攘夷の実現を信じる盲目思想家といった描かれ方でしかなかった。そこが私は不満だった。本ドラマでは、死を覚悟した久坂が龍馬に諭す。「お前は間違えるなよ・・・」と。もちろん、久坂の死に龍馬が立ち会った話などないが、この台詞は、死んでいく攘夷指導者の本心だったように思う。正直、NHK大河ドラマが民放のオールフォクションドラマに負けた・・・と思った。

 史実では、この戦いの8日前の7月11日、同じく京都は三条木屋町で前田伊右衛門河上彦斎等の手によって暗殺された佐久間象山。翌朝、三条河原に首を晒されたといわれているが、その首が実は偽物で、実は瀕死の重傷を負いながらも生きながらえていた・・・というのが今回のドラマの設定。その象山の生命を救うために京都に上った仁先生だったが、意識を取り戻した象山から驚愕の事実を知る。なんと象山は、少年時代に平成の未来にタイムスリップした経験があるというのである。

 佐久間象山は、この時代の日本における、洋学の第一人者だった。彼は自信過剰で傲慢なところがあり、それ故に敵が多かったと伝わる。しかし、彼の持つ知識や思想はこの時代に生きる者たちの中では数段先に進んでいたといわれ、彼の門弟からはのちの日本を担う人物たちが数多く育った。そんな彼を、140年後の未来を見てきた男という設定にしたのが実に面白い。南方仁が、何らかの使命を神に与えられ、江戸末期に送り込まれた人物とするならば、象山は、何らかの使命を神に与えられ、未来を見せられた人物・・・と。

 そんな象山に、仁は自分がしていることは、歴史を変えてしまう行為ではないかという、この時代にタイムスリップしてきてからずっと悩み続けてきた思いを語る。すると象山はいう。
 「お前は歴史を変えてしまうことを恐れている。裏を返せばそれは、自分が歴史を変えてしまえるかもしれないと思っているからだろ?・・・相当な自信家だ・・・。もし、お前のやったことが意にそぐわぬことであったら、神は容赦なくお前のやったことを取り消す。神は、それほど甘くはない。」
 実に深い台詞である。

 私はこの台詞の中の“神”を、“自然”と解釈したい。そして人間の歴史も自然現象の一部。生きとし生けるものは、すべて“自然”によって操られ、生かされているのである。その“自然”を、自然の一部である人間が変えよう、操ろうなど、思い上がりも甚だしい。“自然”がもし、自然の一部である人間の行いを不要だと思ったら、自然の力をもって人間を排除する・・・。“自然”は、それほど甘くはない・・・と。

 今、日本は“自然”の力によって、これまでにない危機を向かえている。“自然”の力を利用してエネルギーに変え、“自然”を操っていると自惚れていた私たちは、“自然”によってその思い上がりを容赦なく打ち消された。“自然”という名の神は、人間を疎ましく思い始めているのかもしれない。こんな娯楽ドラマを見ながら、そんなことを思わされた台詞だった。

 ただ、同時にこの物語では、一貫したテーマとしてこう言っている。
 「神は乗り越えられる試練しか与えない」・・・と。
 日本が今、直面している危機も、乗り越えられる試練として、神が与えたものなのだ・・・と、そう思っていいのだろうか・・・。いや、必ずそうだと思わなければ、きっと乗り越えられないのだろう。だから私たちは、自分たちも自然の一部であるということを自覚し、自然に淘汰されないよう生きる道を探さねばならない。そうすれば、きっと乗り越えられる試練だと、神は言っているのかもしれない。


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by sakanoueno-kumo | 2011-04-19 01:32 | その他ドラマ | Trackback(6) | Comments(101)  

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Commented by タブチ君 at 2011-04-24 18:14 x
坂雲さん今日は。
仁は、女房が大変面白い、といって初回から観ておりますが、残念ながら私は観ておりません。が、新撰組血風録も始まりましたので、私はそちらを観ておりますので少々感じたことを以下に。
新撰組血風録はいわゆる昔ながらのオーソドックスな時代劇の王道のような描き方をしておりますが、果たしてリアリテイとはどういうことなのか、江との対比の中で考えさせられました。
先般も書きましたが、ふとしたことで只今吉村昭に凝っております。
その中の代表的作品の一つと言っても過言ではないと思われる「桜田門外ノ変」があります。
少々ネタバレ的で恐縮ですが、その中のメインである襲撃場面の描写は圧巻です。
ー続く
Commented by タブチ君 at 2011-04-24 18:15 x
その記述によると、実際の真剣での殺し合いは、剣術の稽古とはまるで違ったものだそうです。緊張と恐怖により、稽古の所作はまったく取れなく、ただ相手に体ごとぶつかって行き、相手を押し倒す所作しか取れない。また緊張と力みにより立っていられなくて膝をついてしまうそうです。したがって、いわゆるつばぜりあい、の繰り返し。切られる部分の圧倒的多くは互いの指と耳だそうで、襲撃が終了した後の雪の上には、多くの指と耳が転がっていたそうです。
とすると、我々が今まで時代劇の本流として観てきたものこそ非現実的な世界、いわば歌舞伎の亜流のような世界を本流としてきたのではあるまいか、ということです。
したがって、このようなことを知ってしまってからには、オーソドックスな描写の仕方である新撰組血風録こそ非現実的であり、人間が描かれていなように思え、物足りなく感じるようになりました。
昔とて、冗談を言ったり、ふざけたり、武将とて家庭ではふと弱みをみせたりすることのほうがより現実的ではないのか。そうした意味で江の世界と「桜田門外ノ変」の影響力は大変大きいと思える。
Commented by ブラック奄美 at 2011-04-25 02:17 x
本日幸いにも、「仁 完結編」の第一話が再放送され、私は初めてこのドラマを観ることができました。2時間弱のスケールの大きいドラマでしたが、途中に席を立つこともなく、一気呵成に観終えました。素晴らしいドラマであったと思います。そして視聴者に猛烈に「思考すること」を強要してくるドラマであったと思います。「禁門の変」の真っ最中の京都市内という、幕末の中でも最も過酷で混乱を極めた状況の中で、このドラマは「歴史とは?」「医療とは?」「人の命とは?」「人生の意味とは?」「武士の誇りとは?」「人間の本質とは?」果ては「神の摂理とは?」そんな、重くて果ての無い命題を息つぐ暇も無く容赦なく視聴者に突きつけてきます。「面白い」というよりは「思い知らされる」ドラマでした。(続く)
Commented by ブラック奄美 at 2011-04-25 02:19 x
最近の大河では、よく「現代の価値観で歴史上の事象を表現する」ことが問題視されます。それは、どのような視聴者層でも分かりやすいようにという、制作側の配慮なのでしょうが、ある意味「仇」になってる面も見受けられる訳です。このドラマでは、SFという設定である故もあるのでしょうが、もう本当に潔いほどに「幕末の価値観」に「現代の価値観(特に仁に象徴される現代の医療観)」を真正面からぶつけていきます。決してどの時代にも媚びているような風はありません。そして両者の強烈なせめぎあいの中からより深い人間の本質に迫ろうとする脚本家の意図が伺えます。(続く)
Commented by ブラック奄美 at 2011-04-25 02:20 x
そして、登場人物の設定、ストーリーの因果関係、ディテール(特に施術のシーンなど)が非常にしっかりと計算もされて制作されているので、台詞の一つ一つが浮き上がってしまって空虚になることなど決してありません。ここ数年の大河でよく見られるように、その任、その立場でもない人物が分不相応に突然に哲学めいた台詞を喋りだして視聴者を「?????」な状態にさせるようなことなど、全くといっていいほどありません。SFとはいえ、竜馬の台詞が、玄瑞の台詞が、そして最もSF的であった象山の台詞でさえ、本人が喋ったように全く違和感無く視聴者に入り込んでくるのは、このドラマの設計が相当しっかりしているからだろうと思います。「とにかく台詞が素晴らしいのです・・・・」とは千宗易役の石坂浩二さんのコメントでしたが、その賛辞はこういったドラマにこそふさわしいのではないでしょうか。(続く)
Commented by ブラック奄美 at 2011-04-25 02:25 x
この「仁」を見る前に、私は今回の「江」を観ていました。ここ数年の傾向から、もう相当はっきりしてきていますが、最近の大河は「小学生でも理解できるように・・・・」といったバイアスがかなり強く働いています。その理解促進の手段として「現代志向で歴史事象を表現する」という手法を採っているのですが、私はあまり良い結果を生んでいるとは考えません。それよりもむしろこの「仁」のように、「現代志向」を借りるのではなくて、ぶつけていくといった過程の中から、「現代」と「ドラマの中の時代」をくっきりと際立たせ、その中から視聴者が「思考」する形態のほうが、小学生向けとしてもより有用性が高いのではないかと思いました。まあ、SFという形態をとっているがゆえにできることではありますが・・・・。いずれにしてもここ数年の大河と「仁」を比較して、ここ数年の大河は「負けた・・・・」と私も思いました。このドラマを今後も期待して観ていきます。
Commented by sakanoueno-kumo at 2011-04-25 03:16
< タブチ君さん
<ブラック奄美さん

コメントありがとうございます。
実は今日、呑みに行ってまして、帰宅してから江の録画だけなんとか観て起稿したのですが、もうこんな時間になってしまいました(苦笑)。
お返事は明日、ゆっくりとさせていただきます。m(_ _)m
Commented by sakanoueno-kumo at 2011-04-25 17:25
< タブチ君さん
「新撰組血風録」は、初回を観逃してしまったため、「もういいっか~」てな気分になって、その後も観ていません。
それに、私は幕末物が大好きではありますが、正直、新選組はあまり好きではないんですね。
私の中で新選組は、幕末史の脇役に過ぎないんです。
いろんな見方があると思うのですが、私は、政治的、思想的に見た幕末史が好きなんですよ。
だから、なぜ新選組という組織が出来てしまったのか、新選組のいう“攘夷”とは、なんだったのか、という部分には面白みを感じるものの、新選組内部の抗争や刃傷沙汰には、あまり興味がわかないんです。
なんか、ヤクザ映画と変わらない気がして・・・(笑)。
てなことを言うと、新選組ファンは怒るでしょうけどね。
もちろん、司馬さんの原作は読んでます。
でも、原作は短篇集で、いわゆる余談やよもやま話を集めたものですよね。
だったらなおさら、もういいっかな・・・と。
(続く)
Commented by sakanoueno-kumo at 2011-04-25 17:26
< タブチ君さん
>実際の真剣での殺し合いは、剣術の稽古とはまるで違ったものだそうです。
・・・でしょうね。
射撃のオリンピック金メダリストが戦場に行けば役に立つかといえば、また違うでしょうからね。
特に、天下泰平の世が250年続いた江戸末期の剣術は、多分に精神修行のための要素が強く、剣“術”ではなく、剣“道”だったといいます。
王道といわれる時代劇の華麗な太刀捌きの姿は、西部劇映画に見るカウボーイの華麗なガン捌きと同じく、“見世物”として作られた虚像といえるでしょう。

>昔とて、冗談を言ったり、ふざけたり、武将とて家庭ではふと弱みをみせたりすることのほうがより現実的ではないのか

これについては以前からも言っているように、まったくもって同感です。
むしろ、「この時代の武士とはこうだ!」と決めつけている人に問い正したい部分です。
人間の本質は、今も昔も同じだと私は思います。
Commented by sakanoueno-kumo at 2011-04-25 17:26
< ブラック奄美さん
まあ、一応は歴史ドラマである大河ドラマと、歴史上を舞台にした現代劇であるこの「仁」を比べること自体がナンセンスだとは思いますが、私が率直に「大河が負けた」と思った理由は、貴兄と概ね差異はありません。
特に久坂の台詞については、昨年の『龍馬伝』での武市半平太に吐かせて欲しかった台詞ですね。
でもこれがもし大河だったら、「久坂の自刃に龍馬が立ち会うなどあり得ない。」とか、「禁門の変時の京における長州の立場が分かりにくい」とか、ちょっと賢ぶった石頭に言わせれば、「市井の視点ばかりを強調した現代価値観の反戦史観だ。」などといった批判の声があがるでしょう、きっと。
でも、最初からフィクションの物語だと思って観ているから、そういった声は上がらず、むしろ少しでも歴史の核心をついたような描写があれば、高評価につながる。
逆に大河は最初から視聴者のハードルが高すぎて、良くて当たり前、少しでも首を傾げる点があると怒涛の批判を受ける、ある意味、気の毒にも思います。
(続く)
Commented by sakanoueno-kumo at 2011-04-25 17:27
< ブラック奄美さん
>視聴者に猛烈に「思考すること」を強要してくるドラマ
私もそう思います。
で、その論で最近の大河を見れば、『篤姫』が成功例で、『龍馬伝』が失敗例だと私は思います(『天地人』は、その土俵にすらあがらないかと・・・)。

ただ、貴兄や他の批判される方がいつも言われる「現代の価値観で歴史上の事象を表現する」という批判には、私は同調することが出来ません。
私も、現代価値観で歴史の裁くのは間違いだと思いますが、史観というものは、その時代時代の価値観によって変化するものだと私は思います。
以前も述べましたが、司馬さんの『坂の上の雲』にしても、昭和の高度成長期に執筆された同作品と、今、もし司馬さんが生きていて日露戦争を描くのとでは、おそらくまったく違った観点の作品になることでしょう。
上手くいえませんが、歴史を常に新しい視点で見るからこそ、本当の歴史が見えてくるのではないでしょうか。
もっといえば、批判される方が「当時の価値観」と思っているものも、昭和のどこかの時代の価値観で描かれたものです。
まず、その偏った史観から脱却するべきだと私はこれまでも言ってきているんですけどね。
Commented by ブラック奄美 at 2011-04-25 19:14 x
>批判される方が「当時の価値観」と思っているものも、昭和のどこかの時代の価値観で描かれたものです。
⇒そうなんだろうなと思います。前にも言いましたが、ついつい批判的な発言をする人の心情は、何も自分の浅薄な知識をひけらかしたいからではないんですよね。それよりも、むしろ自分が今まで信ずるに足ると思っていたものと、多いに異なるものが眼前で展開しているから、声を上げずにいられない・・というのが正直なところでしょう。そんでもってそれは「黒船を始めて見た日本人」・・ですか(苦笑)。だからこそ「肯定的であれ・・」というのも分かります。が、そのような中でも、何か信用し得る史観を求めようとする自分がいます(苦笑)まあ、小説やドラマになった時点でバイアスがかかりますから、これにそもそも客観性を求めるのもナンセンスであることは、最近理解し始めていますが(苦笑)、制作側の脳内妄想のようなものをポンと持ち出されて、「ハイ、観なさいね」と言われても難しいものもあります。ドラマや小説といった形式にこだわらなくてもいいですから、比較的バイアスがかからずに「最初に史料ありき」といったスタンスで構築された史観に出会ってみたいものです。
Commented by ブラック奄美 at 2011-04-25 20:03 x
実は、以前に紹介した例のお二方のブログとは別のブログで非常に興味深い一節を見つけましたので紹介させてください。

>この脚本家がある歴史雑誌で語った方針が頭にひっかかっている。「彼女たちがどんな思いであの時代を生きていたか、本当のことは分かりません。そもそもあの時代の方々を現代の感覚の延長で捉えるのは無理のあることです。それでも皆さんに彼女たちの生き様をお伝えしようと思えば、現代感覚であの時代を捉えることが絶対に必要です。」

このブログの主の方は、上記のように捉えるのではなくて「ドラマの時代と現代との共通項を設定すべきだ(例えば、政略結婚≒現代の意にそぐわない結婚とか)といった視点で論を展開されていますが、それはおいておくとして、もし田渕氏が実際にこのように発言されているのであれば、やはり注目せざるを得ません(続く)
Commented by ブラック奄美 at 2011-04-25 20:11 x
このブログにおいては、雑誌の名前までは明らかにされていませんでしたが、この発言を真に地で行くがごときの(爆)、これまでのドラマの内容から類推するに、この記述は信憑性に足るものかと考えます。そして、断っておきますが、私はこの発言を頭から否定をするものでもありません。「ひょっとしたら真理なのかな?」と考えている自分もいます(苦笑)。しかし、そのごたいそうな発言の結果が、これまで見せ付けられてきたドラマの内容だったとすると「なんだかなあ」と感じている自分もいます(爆)。いやあ、大河ドラマって本当に悩ましい(苦笑)
Commented by タブチ君 at 2011-04-26 09:19 x
ブラック奄美さん今日は。
さて、田淵語録の中に、<歴史とは現在の私たちが作るもの>、という言葉があります。
これはアンチ派からみれば、また非常に誤解を受けやすい、極論ではありますが、私はこの言葉を聞いた時、なるほど、と感心しました。
極端ではありますが、一面、真理であり本質を衝いていると思います。
以前引用した「歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話である。」という文句はEHカーの<歴史とは何か>からの一節ですが、女史はこのEHカーを念頭に置いて言ったかどうかわかりません。
が、はからずも彼女自身の言葉でほとんど同じようなことを言っている。このように彼女の直感力というか、一を知って十を知る力というか、本質を見抜く能力を私はひじょうに高く評価しております。
がしかし、本年度の作品は、現在と過去との対話が少なく、私たちが作るもの、が前面に出過ぎたきらいがあって不評を買っているかもしれません(苦笑)。
Commented by ブラック奄美 at 2011-04-26 13:29 x
タブチ君さん、RESありがとうございます。貴兄に先に紹介していただいたEH.カーの2つの言葉。そして、今回貴兄が紹介された「田渕語録」の言葉、そして上記のブログの中の言葉、それらに共通する1つの何かが存在しているらしいことを理解することができます。

>がしかし、本年度の作品は、現在と過去との対話が少なく、私たちが作るもの、が前面に出過ぎたきらいがあって不評を買っているかもしれません(苦笑)。

このようなコメントがあると、当ドラマに対する厳しい風当たりもだいぶ収まってくるのではないかと思います。「江」をめぐる制作側と「内容に不満を持つ視聴者層」との間に横たわる「深く大きな溝」は決してよい状態であるとは考えていません。制作側の意図は全くといっていいほど伝わりませんし、視聴者側は必要以上に常にイライラさせられます。双方にとって無駄なエネルギーばかり消費する羽目となり、誰の得にもなりません。制作側の「更なる伝える努力」を望む次第です。
Commented by ブラック奄美 at 2011-04-26 13:49 x
最後に、もう一度話を「JIN」に戻して、私が「つかみ一発」でこのドラマに魅了させられてしまった「JIN」の冒頭のメッセージを再掲させてください。実はこのメッセージは、録画データから耳コピーでしかアップする手段が無く、又、長くなるので紹介するのを控えておりましたが、タブチ君さんの「田渕語録」とも共通する何かがあるようにも思えましたので・・・・・・。

>「僕達は当たり前だと思っている。思い立てば地球の裏側に行ける事を。いつでも想いを伝えることができることを。平凡だが満ち足りた日々が続くであろうことを。昼も夜も忘れてしまった世界を。けれど、それはすべて与えられたものだ。誰もが歴史の中で戦い、もがき苦しみ命を落とし、生き抜き、勝ち取ってきた結晶だ。だから僕達は更なる光を与えなくてはならない。僕達のこの手で・・。」 (続く)
Commented by ブラック奄美 at 2011-04-26 14:07 x
非常に志の高いメッセージだとすぐに思いました。そして決して「このドラマの威」を借りて偉そうなことを言うつもりはありませんが、私が以前に言ってた「どのような先人でも真摯に向き合う」大切さをこのメッセージは伝えてくれていると思います。なぜなら、私達が「生かされている」そして「享受することができる」結晶を作り上げてきてくれた人達なのですから・・・・・。

余談ですが、私の中でこのメッセージの内容を最も具現化してくれているドラマは、実は大河ドラマではなく、かつて日本テレビが時代劇スペシャルとして放送した「白虎隊」「田原坂」「五稜郭」の三作品です。特に「白虎隊」は今は亡き田中好子さんが、当時の会津藩砲術指南役「山本覚馬」の妹「八重子」を演じておられ、黒装束に身を包み七連発のスペンサー銃を手に官軍に立ち向かっていく、女性レジスタンスを演じておられます。いつも温和な役柄の多い彼女の中で非常に珍しいキャスティングであったと思っています。今、この時期もう一度観たくなりました。哀悼の意をこめて今夜からでも観ていくことにします。
Commented by sakanoueno-kumo at 2011-04-26 23:33
<ブラック奄美さん
>比較的バイアスがかからずに「最初に史料ありき」といったスタンスで構築された史観
バイアス(先入観)という観点に立てば、むしろ視聴者側にあるんじゃないんですか?
田渕さんは、この脚本の依頼があってから戦国時代を勉強されたと公言されています。
それについて非難する声が多いようですが、歴史に詳しいことと、歴史を見るセンスとは違うように思います。
むしろ、あまり知らないからこそ、バイアスがかからない史観が作れるんじゃないんですか?
想像するに、私もブラック奄美さんもタブチ君さんも、田渕さんより歴史に詳しいでしょう。
それゆえに、凝り固まったバイアスが弊害になっているところがあると思います。
はからずも、この「仁」というドラマの主人公である南方仁は、“歴史オンチ”な人物として描かれています。
そこが、このドラマの面白いところでもあります。
“歴史オンチ”だから、いらぬ先入観を持たずに歴史上の人物と接する・・・そこには、私などには考え及ばない史観となるのです。
もし、この主人公が私のような人物だったら、きっと面白くないと思いますよ(笑)。
(続く)
Commented by sakanoueno-kumo at 2011-04-26 23:36
<ブラック奄美さん
「最初に史料ありき」と言われますが、それは歴史的事実に対するもので、ここでいう“史観”とは意味合いが違うと思います。
“史観”とは、タブチ君さんがおっしゃられている、「現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話」という部分を指すものでしょう。
いわゆる、歴史の解釈です。
これは、何度も言いますが、“変化するもの”だと思っています。
(続く)
Commented by sakanoueno-kumo at 2011-04-26 23:36
<ブラック奄美さん
たとえば、秀吉像などがそうでしょう。
ひと昔前は、裸一貫から出世した人のことを“今太閤”なんて言ったように、立身出世の代名詞のような存在でしたが、近年では、天下を取ることのみに執着した貪欲なマキャベリストとして、あまり良い描かれ方をしません。
戦後焼け野原の時代から裸一貫で伸し上がった人たち、立身出世を夢見て田舎から集団就職で都会に出てきた人たちにとっては、秀吉のサクセスストーリーは憧れのような存在だったのでしょう。
その時代の価値観が作った人物像だったと思います。
平成の今は・・・秀吉観も変わってきて当然ではないでしょうか?
豊臣秀吉という人物は、歴史上ひとりしかいません(当然ですが)。
しかし、その人物に対する解釈というのは、その時代の価値観によって変わるものです。
それが、私のいう“史観”です。
(続く)
Commented by sakanoueno-kumo at 2011-04-26 23:37
<ブラック奄美さん
あと、「政略結婚≒現代の意にそぐわない結婚」という話ですが、これも私は何も間違っていないと思います。
恋愛結婚など存在しないこの時代(秀吉と寧々は恋愛結婚だと言われていますが)、武家の女子は政の為に結婚するのが当たり前・・・ここまでは私も同意するところですが、だからそれに疑問を感じることも、不幸に思うこともなかった・・・なんて、なんで言い切れるのでしょうか?
戦国であれ明治であれ昭和であれ、どんな相手かもわからない人のもとに嫁ぐのは、不安な気持ちでいっぱいだったんじゃないですか?
自分が嫁ぐことによってお家のためになるなら本望・・・なんて、男尊女卑の時代が作った男性史観だと思いますよ。
男尊女卑思想がまだ残っていた昭和の時代にはそれが言えなかった、しかし、今はそれが言えるようになった・・・それだけのことだと思います。
これを、「女性史観だ!」と批判する方々は、自身の史観が男性史観だということが分かっていないと思います。
この点についていえば、明治・大正生まれの吉川さんも山岡さんも池波さんも司馬さんも海音寺さんも、皆、男性史観だといえるのではないでしょうか。
(続く)
Commented by sakanoueno-kumo at 2011-04-26 23:38
<ブラック奄美さん
「白虎隊」「田原坂」「五稜郭」は、私も名作だと思います。
特に、今ほど歴史に詳しくなかった頃に触れた作品というのは、心に残っているものです。
皆、そうなんじゃないでしょうか?
私も、十代の頃に初めて読んだ『竜馬がゆく』が、その後の人生のバイブルとなってしまい、そこから脱却できない自分がいます。
だから、批判する方々の思いがわからないわけではないんですよ。
でもね・・・そんな固定観念というのは、絶対、弊害でしかないと思いますよ。
Commented by sakanoueno-kumo at 2011-04-26 23:58
< タブチ君さん
>歴史とは現在の私たちが作るもの
確かに誤解されがちな言葉ですね(笑)。
“作るもの”といってしまえば、なんかどうにでも変えていいもの、と解釈されても仕方がないですね。
ただ、ある意味、私も真理だと思います。
歴史とは、後世の目があって、初めて歴史になるわけですから。
だから、「現代の価値観で歴史を見るな!」という意見は、私は的外れな意見だと思います。
EH.カーの言葉、深く胸に留めおきたい言葉です。
Commented by ブラック奄美 at 2011-04-27 00:57 x
坂雲さん、RESありがとうございます。私のコメントの表現に誤解を生じかねない部分があったようで、最初に2点ばかり補足をさせてください。まず、バイアスという言葉ですが、これは私自身は(先入観)というより、相場の世界でよく用いられる(圧力)という意味で用いました。よく、「売りバイアス」「買いバイアス」といった用いられ方をします。小説やドラマは「商品」でもありますから「売れてなんぼ」でもあります。よってその自己目的のため、客観的な内容は二の次になりかねない・・・・という意味のことを言いたかったのです。次に、「政略結婚≒現代の意にそぐわない結婚」の件ですが、これは紹介させてもらったブログの主の方の見方であって、私の発言でもなければ田渕さんの発言でもありません。ですので、なぜ俎上に上がってきたのか分かりませんが、ただ、この件を引き合いに出して貴兄が言われようとする内容は良く理解できました。(続く)
Commented by ブラック奄美 at 2011-04-27 01:21 x
次に、「史観」の形成に関してです。この点に関して、貴兄と私では考え方の違いがあるようです。「史観」の形成に関しては、時代の世相が色濃く反映されるといった面は大きいでしょう。しかしそれのみではないでしょう。史料研究が多岐にわたり、深く掘り下げられた結果、新しい見方が形成されたケースも多いのではないでしょうか?例えば秀吉像で言えば、高度経済成長の頃に形成された秀吉像は、まさに世相が生み出した秀吉像だと思いますが、その後の秀吉像の変容ぶりは、秀吉研究が多岐にわたって掘り下げられていった結果だと思います。そして、個人的な信条だってそうです。私もそうですし貴兄も恐らくそうではないかと思いますが、「世間の見方がこうだから・・・・」といって、その史観になびくようなことはまずしないでしょう?やはり、そこには自分なりの根拠のようなものを大切にした「史観」を培っていくはずです。よって、「史観」の形成は、何もその時代の価値観や世相のみによって為されたものばかりでもない・・・・ということです。(続く)
Commented by ブラック奄美 at 2011-04-27 01:36 x
そのように、「根拠」をもって培ってきた「史観」は逆に言うと、世相が変わろうとも変化するものでもないと言えますし、固定観念にもなります。それだけのこだわりがあれば、唐突に異なるものを見せ付けられて「ハイそうですか・・・」と畏まれ・・・・というのはある意味無理な話です。反発や文句は当然生まれます。しかし、ここで考えていただきたいのは、そういったこだわりを持った視聴者は、もういい大人でもありますし、何より自分がそうしてきたように、相手の史観の根拠を重視すると思います。よって、そこが十分に示されれば、反発は消えますし、自分が持っている史観と異なるものであっても、「お互いの違いを認識しあって」問題を保留することだってできます。だから私は、「史観の根拠」のことをことあるごとに言いますし、その根拠を史料に求めようとする方向は間違ってはいないと考えています。
Commented by ブラック奄美 at 2011-04-27 01:49 x
根拠とは、何も直接的なものだけを指しません。よって該当する史料が例え存在しなくとも、周辺事情の調査からより実証性のある史観を構築することは可能であるはずです。このあたりの姿勢や方向性が見れないと、恐らく、又、反発はするでしょう。「現代の価値観で歴史を見るな」とも言うでしょう。補足するなら「しっかリとした根拠なしに現代の価値観で歴史を見るな」ということです。

ですので先にも、述べましたが、ドラマの事情ばかりが目に付くような制作側の姿勢にはつい反発してしまうのです。

しかし、すべての歴史事象の解明がこのように最初からキチンと行くものでもないのでしょう。現在進行形のものもあるかもしれない。(「江」などひょっとしたらそうかも知れませんね)だから、貴兄にも戒められたように「過度に否定的な見方」は極力しないように心がけます。ただ、一つわかっていただきたいのは、恐らくこだわりを持つ歴史ファンほど、文句も多く固定観念も多いかも知れませんが、裏を返せば根拠、そして自分が信ずるに足るものを希求してやまない存在でもあるということです。
Commented by sakanoueno-kumo at 2011-04-27 10:14
< ブラック奄美さん
話が堂々巡りのようですね。
>「史観」の形成は、何もその時代の価値観や世相のみによって為されたものばかりでもない
おっしゃるとおりですが、それが多分に影響している、言い換えれば、それなくして歴史は語れない・・・ということが言いたかったのです。
そしてそれは、歴史家の方々が歴史を研究するにあたっても、最も重要視するところです。
そのことは以前、「坂本龍馬の人物像についての考察」という稿で、歴史家の故・飛鳥井雅道氏の見解をもとに、時代背景と龍馬像の変遷を紹介していますので、よければ一読ください。
http://signboard.exblog.jp/13702283
(続く)
Commented by sakanoueno-kumo at 2011-04-27 10:15
< ブラック奄美さん
>「根拠」をもって培ってきた「史観」
>史料が例え存在しなくとも、周辺事情の調査からより実証性のある史観を構築することは可能
貴兄が勘違いされていると思えるのは、「根拠」があって「史観」が生まれると思っておられるところ。
歴史研究というのは、まずは「想像の歴史」が生まれて、それを裏付けるための研究がなされるものがほとんどでしょう。
で、その裏付けが取れていないものは、「史観」として認められない、なんてことはありません。
「史実」と「史観」を混同してはイケナイと思います。
歴史研究というのは、「もしかして、こうだったんじゃないだろうか?」という出発点から始まります。
その意味では、歴史研究家という人種は、ある種ロマンチストといえるでしょう。
だから歴史は面白いものなんじゃないですか?
(続く)
Commented by sakanoueno-kumo at 2011-04-27 10:15
<ブラック奄美さん
私にも、多くの歴史家の方に異論をとなえたい「史観」がありますし、そんな私見をこれまでもブログ内で述べてきています。
たとえば、秀吉の死後、家康は一直線で政権交代と豊臣家の滅亡を目指した・・・というのが一般的な見方だと思いますが、私はそうじゃなかったのでは?と思っています。
たしかに大坂の陣の頃になると、そう思わざるを得ない行動を示しますが、関ヶ原前後の家康は、まだそこまで考えが固まっていたわけじゃなかったのでは?と。
迷いと葛藤の中、気がつけば、そうせざるを得ない状況になったのでは?と。
しかし、研究者でない私は、この考えに対する明確な「根拠」を持ち合わせておりません。
あえて根拠をいえば、「人間の心とは」という形而上的思想に行き着きます。
家康とて人間、秀吉が死んだからといって露骨に牙をむくのは、憚られる思いもあったのでは?と。
しかし、貴兄の論でいえば、このような根拠のない「史観」で歴史を見てはイケナイということですよね。
残念ながら、私にとってそんな歴史の見方は、何の面白味も感じません。
いろんな想像を膨らませられるところが、歴史の最大の魅力だと私は思っています。
Commented by ブラック奄美 at 2011-04-27 12:38 x
坂雲さん、RESありがとうございます。毎度、泥沼に付合わせているようで申し訳ないですが、お陰様で、時間をかけている分、見えてきた部分も大きくなってきたように思います。

>「坂本龍馬の人物像についての考察」
⇒ありがとうございます。既に拝読させていただいてます。そして「皇后の奇夢」のくだりまでは、私も既知事象として既に認識しておりました。おっしゃるとおり、まさに、歴史家(・・・・というか利用者)によって意図的に創造された竜馬像であったと考えています。そして私はこれを「バイアスがかかった竜馬像」とみておりますし、この状態を排除するのは、やはり「史料至上主義」というか、原点(=史料)に立ち返った探求姿勢こそ貴重なのではないか・・・・と思うようになりました。そして司馬氏の探求姿勢こそ、それに近いものではなかったかと考えています。(続く)
Commented by ブラック奄美 at 2011-04-27 12:40 x
>「しかし、貴兄の論でいえば、このような根拠のない「史観」で歴史を見てはイケナイということですよね。残念ながら、私にとってそんな歴史の見方は、何の面白味も感じません。」
⇒今回、貴兄がこの結論を出されたことが、私にとって大きな収穫でした。まず、私の考え方に関してですが、端的に言えば貴兄が出された結論であっています。その点、嬉しく思っています。少し補足させてもらえるなら「史観(もしくは想像)」が先か「根拠」が先か、そのあとさきまでは、あまり問題視しないし、そして「イケナイ」とは思っていても、そのことをもって他人の考え方までもを変更を強要する意図は持っていないということです。ですので、私が攻撃しているとしたら、「ドラマ」「小説」の制作側に向けられたものであって、他の視聴者に対してはその意図は「希薄」であるということです。(続く)
Commented by ブラック奄美 at 2011-04-27 12:42 x
>「話が堂々巡りのようですね。」
⇒この点に関しては、申し訳ないと思っております。「他人の庭先」で少し控えたほうが良いのかな?と自分でも思うときがあります。もし、これまで私が述べてきた自身の考え方に「救いようの無い、超致命的な欠陥」があるのであれば、指摘をいただいてすぐに改めていかなくてはならないのでしょう。しかし、そうでもないとしたら・・・・・・・これは、お互いそれなりの経験を積んできた大人同士ですから、合致するときもあれば相違するときもあるでしょう。そこで私が考えていることは、まず、貴兄をはじめ、私に対して真摯にレスを返していただいている方に対して、あたかも表面づらをあわせるかのごとく、十分に理解もしていないくせに擦り寄っていくような態度は、最も失礼にあたることだろうと・・・・・ということです。結果、堂々巡りのような状態を惹起します。申し訳ありません。(続く)
Commented by ブラック奄美 at 2011-04-27 12:44 x
・・・ううん、謝りながらも、貴兄にも理解いただきたい・・・・といったところなのですが・・・・・・。話は変わりますが、先にも述べさせてもらった「田中好子」さんの生前メッセージに対しての私の感想ですが、あれも、マスコミのコメント内容などは全く持って知りませんでしたし、よって、そんなものに同調できようはずもありませんし、又、貴兄の心境をおもいばかってという部分だけでもないのです。自身の近しい人の死に臨んだと時の体験と、今回の田中好子さんのメッセージを重ねて考えたときの率直な感想です。詳細は避けますが、我が家は「曹洞宗」の宗旨なのですが、こちらでは死後の世界は決して「お花畑」的な世界では捉えないんですね。そのときに、彼女が図らずも述べられた志は、ものすごく重要な意味を持ち、そして本当に尊敬に値し、そして生き残った者たちをも安堵させるものなんですね。まあ、これなんかも立場の違いが解釈の違いを生じている一例です。(続く)

Commented by ブラック奄美 at 2011-04-27 12:46 x
いずれにせよ、もうそれなりに経験を積んでいる大人の議論ですから、変に合致している状態のほうが不自然かも知れません。その時に重要なことは、互いに「相違の存在」を認識しあうことだと考えています。(ということは、お互い一通りの発言をし終えて、尚、平行状態のときは、その課題を留保し、しかし、課題が存在していることはしっかりと記憶しておくということですね。あまり他人を攻撃しすぎないということは重要だと思います)

私の方は、ここまで一通り発言させてもらったので、終わりにしますが、最後に貴兄のこちらのサイトですが、ある意味、十分に実証的ですよ。貴兄はあまり意識されておられないかも知れませんが、十分に実証的です。私が長居をさせてもらってる所以です。
Commented at 2011-04-27 15:13 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by sakanoueno-kumo at 2011-04-27 15:29
< ブラック奄美さん
「史観」と「史観」のぶつかり合いならば、おっしゃるように見解の相違として捉えることが出来るのでしょうが、貴兄のご意見は、「史観」そのものの存在を否定しておられる。
それでは、歴史教科書ののような物しか認められないということになります。
>司馬氏の探求姿勢こそ、それに近いもの
それは「史実」の描写に対する探求であって、いわゆる「司馬史観」といわれるものは、すべて氏の脳内から生まれた独自の観点です。
だから、「司馬史観」は歴史家の間でも、肯定派と否定派でハッキリ分かれるのです。
貴兄が言われるように、史料に裏付けされた不変のものを「史観」というならば、肯定派と否定派など生まれません。
「史観」とは、歴史に対しての立場や考え方であって、不変のものではありません。
何度もいいますが、「史観」と「史実」を混同しておられるのではないでしょうか?
Commented by タブチ君 at 2011-04-27 17:37 x
坂雲さん、ブラック奄美さん今日は。
横入りさせてもらい恐縮です。こうした議論は決して嫌いではない(笑)ので参加させていただきます。こうした場はなかなかないので、まず参加させてもらう事に感謝します。
さて、坂雲さんの話、言いたい事はひじょうによくわかる。恐ろしいくらい同じ考えです。
一方、アンチテーゼとしてのブラック奄美さんの話も貴重ですが、失礼ながら言いたい事がもう一つよくわからないし、理解できない。
ブラック奄美さんの話は、実証史学、つまり学術的な歴史とドラマにおける歴史とを同一視し、混合して論じているのではあるまいか。
学問としての歴史であるならば、当然史実第一であり、それが無い場合学問、歴史学として成立しないのは当然であります。けれども歴史ドラマは、小説その他と同じように作者、制作者の主張があってあたりまえであり、またそれがなければ成立しない、ということも当然であります。
したがって学問としての歴史学と歴史ドラマとはまったく異質のものであり同一平面上で論じることは無理があるし、噛み合わないものだと思われます。
ー続く
Commented by タブチ君 at 2011-04-27 17:40 x
まず、史実第一主義の実証史学、つまり学問としての歴史における史実とはなにか、ということであります。繰り返しで恐縮ですが、これがカーの言わんとしている事です。つまり、客観的に存在しているようにみえる史実というものですら、後年の人間が、史実と認定して初めて史実として存在するものであるから、当然ながらその人のなんらかの意図が介入してくるもの、人間ですからそこにどうしても捨象がある。したがって、絶対値としての史実などはありえない、ということです。
学問としての歴史学ですらそうですから、創造性、オリジナル性を問われる歴史ドラマであるならば、なおさらの事であります。ではドラマにおける歴史の最優先は何か。
いかに人間を描くか、ということであると思われます。
であるならば、歴史ドラマにおいては、まったく野放図に歴史を展開してもよいか、という問題があります。そこが自ずと規制が働くものだと思っております。
ではその規制とはなにか。読者、視聴者を説得できるや否や、と言う事だと思われます。
つまり史実といわれるものをまったく無視して展開した場合、辻褄が合わなくなってくる。

ー続く
Commented by タブチ君 at 2011-04-27 17:45 x
だから作者の認識において、自ずと規制が働く、ということだと思われます。
その辻褄が合わなくなった端的な例が、昨年の伝、だと思います。<坂本様のウソはみんなを幸せにするウソ>、というセリフは、浅薄な脚本がまさに矛盾に行き詰まってしまった、けだし迷言と記憶しております。
以上、同じ<歴史>という言葉を使っても、学問としての歴史と、ドラマにおける歴史とでは、その使用価値がまったく違うということだと思われます。
もう一つ。ブラック奄美さんの話がよく理解できないのは、史観、という言葉の使い方だと思われます。
坂雲さんの言われるように、史観とは、ある事実、史実に対しての解釈の仕方です。例えば、龍馬が何年何月何日に脱藩した、この事については誰も異論がない。
ではなぜ脱藩したのか、という理由付け、位置づけが、その人の持つ史観によって変わってくるものです。私は昨年の伝のような解釈が、まったく納得できない。虫唾が走るほど、あのような解釈が嫌いでありました。

ー続く


Commented by タブチ君 at 2011-04-27 17:46 x
ご存知のように史観とは、大きく分けて唯物史観に立つか否かであります。つまり、人間の歴史とは、人間の行動原理とは、一言で言って経済をテコにして動いているのだ、というマルクス主義、唯物史観であります。一方そんなことはない、とするのが司馬氏の考えであり、だから司馬氏の世界に多くの人がロマンを感じ、魅了されるのだ思われます。
<坂の上の雲>も当時の唯物史観、東京裁判史観全盛期に反発して書いた、と司馬氏の何かのエッセイで読んだ記憶があります。
以上的外れな指摘でありましたらご容赦を(笑)。
Commented by ブラック奄美 at 2011-04-27 19:21 x
坂雲さん、タブチ君さん、RESありがとうございます。もう話がここまで長きにわたってますから、ことのついでに、もう少し、私の理解促進にお付き合い下さい(笑)。

史実と史観の関係について、ここで最も単純化したサンプルを設定してみます。例えば、XX年XX日にAという人の「信号無視」が目撃されたとします。これを歴史家が取り上げたとしたら、これは史実ですね。そして歴史家「甲」は「Aさんは急いでいた」という説を出し、歴史家「乙」は「Aさんは盲目であった」という説を出したとします。この2つは史観といってもいいのでしょう。私が危惧しているのは、昨今の大河ドラマは、「急いでいた」とか「盲目であった」という史観のみが先に立って、「なぜならAさんは信号無視をしたから」といった因果関係が見えないものがあまりにも多いのではないかなということなんですね。逆に言うと、この因果関係がはっきり見えると一旦は文句は言わない・・・ということなのですが。この因果関係のことを「根拠」と呼んでいます。そして、歴史上の事象ですから、そこには物理的に制約される因果関係だけではなく、該当する時代の風俗習慣が制約を科してくる場合もあると思います。(続く)
Commented by ブラック奄美 at 2011-04-27 19:24 x
そこで思い起こされるのが、3年前の「篤姫」です。「篤姫」が頻繁に2人だけで「尚五郎」と会合を重ね、そこからの展開がドラマ進行上でのキーポイントとなっていました。しかし、当時の2人は例え物理的には会うことが可能であったとしても、当時の風俗習慣の元で2人きりで合うことが果たして可能であったのでしょうか?私は現時点では、殆ど不可能に近かったのではあるまいかと考えていますし、篤姫を批判する多くの人もひっかかていると思います。もし、それが可能であるとしたのなら可能とする根拠を視聴者に分かりやすく示していただいたのちにドラマを進行させていただきたいと願うものです。今、この不可能なことを仮に「ウソ」と呼称しますが、歴史ドラマの鍵の部分となる部分にもし重大な「ウソ」が存在したなら、その後のドラマの展開がいかに秀逸なものであろうと、もうそのドラマに対する「信頼感」は失せてしまう・・・・・というのが、これまでの私の歴史ドラマに対する視聴態度であったのですが、この視聴態度に対して、「明らかに間違っている点」「間違ってはいないが、望ましくない点」を御両者よりご指摘いただければありがたいです。拝聴いたします。
Commented by sakanoueno-kumo at 2011-04-28 00:38
< 非公開コメントさん
申し訳ありませんが、ご要望の件、遠慮させてください。
スミマセン。
Commented by sakanoueno-kumo at 2011-04-28 00:38
<タブチ君さん
私の言いたいことを、ひじょうに端的に、且つ論理的にまとめていただき、ありがとうございます。
というか、より深く掘り下げた見解に脱帽せざるを得ません。
><坂の上の雲>も当時の唯物史観、東京裁判史観全盛期に反発して書いた
それは初めて聞きました。
司馬氏のエッセイも結構読んでるつもりなんですが・・・まだまだ未熟です(苦笑)。
Commented by sakanoueno-kumo at 2011-04-28 00:40

< ブラック奄美さん
ご提示いただいたサンプルが適正ではないと思います。
急いでいたか、盲目であったかは、必ずどちらかが正解でどちらかが間違いですよね。
歴史は、刑事捜査のような単純なものではないと思います。

私も、私個人の実体験でサンプルを設定します。
私は子供の頃、ひじょうにお喋りなガキでした(苦笑)。
5年生の担任の先生に、「坂雲くんは、授業中に私語が多く、ときに授業の妨げになることがある。」と、通知簿に書かれました。
ところが、6年生の担任の先生は、「坂雲くんは、いつも冗談を言って皆を笑わせ、授業を盛り上げてくれる。」と評価してくれました。
私としては、6年の担任の評価を指示したいのですが(笑)、残念ながら、5年の担任の評価も間違いではありません。
私という人間はひとりしかいませんが、視点が変われば、評価は180度変わるのです。
(続く)
Commented by sakanoueno-kumo at 2011-04-28 00:41
< ブラック奄美さん
そして、その見方は、どちらが正しいということはないのです。
クラスメイトにその見解を聞いたとしても、おそらくどちらの意見にも賛同者がいるでしょう。
中には、「私は坂雲くんが、お喋りだとは思わなかった。」という少数派もいるかもしれません。
それも、その人の見解として、間違いではないのです。
これが、私がいうところの「史観」です。
ここでもし、「私のクラスに坂雲くんなんていなかった。」というクラスメイトがいたとしたら、それは史実歪曲です。
いかがでしょうか?
(続く)
Commented by sakanoueno-kumo at 2011-04-28 00:42
< ブラック奄美さん
次に、篤姫と尚五郎の件ですが、もちろんあれは作り話です。
ただ、両家の家格や地理関係からいえば、旧知の仲であったとしても何ら不思議ではありません。
ただ、おっしゃるように当時の風俗習慣の観点でいえば、なかったと考えるのが正しいでしょう。
でも、絶対ではありません。
未婚の男女が二人きりで会うなど、当時はあり得ない・・・というのは一般的な道徳論であって、では当時の若者がすべてそのしきたりを守っていたかといえば、そうではありません。
密会や、ときには夜這いなどもあったといいます。
当時の風習がそうだから、当時に生きる若者が皆そうだったというのは、偏見ではないでしょうか?
でもまあ、あれは田渕さんの空想の世界ですけどね。
(続く)
Commented by sakanoueno-kumo at 2011-04-28 00:42
< ブラック奄美さん
ただ、それを言い出したら、歴史物語は皆、ウソだらけですよ。
『竜馬がゆく』の、お田鶴さんと竜馬のラブロマンスなんて、もっとあり得ないでしょう。
お田鶴さんのモデルは、平井加尾だと言われていますが、小説でのお田鶴さんは土佐藩家老のお姫様。
下士の竜馬とお姫様のお田鶴さんが、度々密会したり、さらには竜馬に夜這いを誘う。
篤姫と尚五郎のプラトニックラブより、こっちのほうがよっぽどあり得ないですよ。
司馬さんが書いたら受け入れられて、田渕さんなら受け入れられない・・・というのはおかしいんじゃないですか?
(続く)
Commented by sakanoueno-kumo at 2011-04-28 00:43
< ブラック奄美さん
歴史小説における色恋話は、すべてフィクションといっても過言ではありません。
以前、貴兄のコメントで、秀吉と茶々に恋をさせるといった田渕さんの言葉に対して、「だったら恋文のひとつでも見せてくれ」といった意味のことをおっしゃっておられましたが、それを言ったら、歴史ドラマはおろか、歴史小説もなにも見れません。
頼朝と北条政子のロマンスも、義経と静御前の悲恋話も、すべて×です。
静御前なんて、存在すら否定する歴史家もいるんですから。
「ウソ」があったら「信頼感」が失せてしまうというならば、歴史ドラマや小説は、誰が作者であっても、信頼できるものは存在しません。
Commented by ブラック奄美 at 2011-04-28 02:30 x
坂雲さん、RESありがとうございます。

>急いでいたか、盲目であったかは、必ずどちらかが正解でどちらかが間違いですよね。
⇒両方正解かもしれません・・・・というか、実は、私は話のとっかかりにおいて、史観の内容をあまり問題視していないと言えます。故に、私の史観の用い方がまずかったのかも知れません。私が問題視・・・・というより希求するものはまずは根拠なのです。私のサンプルで言えば「Aさんは信号無視をした」ということですし、貴兄のサンプルで言えば「坂雲さんはおしゃべりなガキでした」ということです。私が根拠にこだわる理由は実に単純です。根拠が希薄な史観がもし一人歩きするようなことがあれば、事と次第によっては過去に実存した人物の「名誉毀損問題」にもなりかねないと考えるからです。たとえ、それが小説やドラマの世界であったとしても実存した人物を扱っている限りは慎重に・・・・・・と、まあ、思ってしまうんですよ。私は(笑)石頭ですか?(笑)
(続く)
Commented by ブラック奄美 at 2011-04-28 02:35 x
>中には、「私は坂雲くんが、お喋りだとは思わなかった。」という少数派もいるかもしれません。
⇒「なぜなら、坂雲君に輪をかけておしゃべりな友達がクラスには他に沢山いたからです(笑)」・・・・といったような、根拠が欲しいんですよ。私は(笑)間違ってますか?(笑)

>「でも、絶対ではありません。未婚の男女が二人きりで会うなど、当時はあり得ない・・・というのは一般的な道徳論であって、では当時の若者がすべてそのしきたりを守っていたかといえば、そうではありません。密会や、ときには夜這いなどもあったといいます。当時の風習がそうだから、当時に生きる若者が皆そうだったというのは、偏見ではないでしょうか?」
⇒・・・・と、このように、貴兄の話は根拠を述べることが可能なときには、たいていこのように「根拠」を述べられてますよね。まさに「実証的」ではありませんか?・・・・と、これは私の掛け値なしの率直な印象です・・・・・(続く)
Commented by ブラック奄美 at 2011-04-28 02:39 x
・・・・が、ここでは貴兄に「ヨイショ」することが目的ではなくて(笑)、このように貴兄が述べられたような根拠を、是非、制作側より提示してもらいたいんですよ。これがあれば、ブーブー言ってる連中の大半は収まりますよ(笑)制作側も、視聴者も無駄なエネルギーを使わなくて済むッ。視聴率だってもっと上がるッ!(爆)

>篤姫と尚五郎のプラトニックラブより、こっちのほうがよっぽどあり得ないですよ。・・・というのはおかしいんじゃないですか?
⇒看過できるかどうか?程度問題だと思うんですよね。「竜馬がゆく」のラブロマンスのケースは、今、記憶が不確かなので、ちょっと保留させてください。篤姫と尚五郎のケースは、私はドラマの根幹の一つであったと考えています。あの2人の会話を契機として、ドラマが新展開を見せるケースが多々ありましたからね。それでもって、その根幹がそれ以前の常識では想定しにくいケースであるのなら、どうか「根拠」を示していただきたい。それさえしっかり提示していただければ、どんな妄想的ストーリーでもまずはついていきますが、脳内妄想オンリーというのは、歴史ドラマにおいてはちょっと勘弁して欲しい。
Commented by ブラック奄美 at 2011-04-28 02:46 x
>以前、貴兄のコメントで、秀吉と茶々に~歴史ドラマはおろか、歴史小説もなにも見れません。
もちろん、恐らくはそんな恋文などは存在しないであろう事は百も承知で言ってますよ(笑)、しかし、もしもですよ(笑)茶々があの世から「猿なんか絶対に嫌いでしたから~~~!」って言ってきたら、田渕先生どうするんでしょう(笑)貴兄は「話にならん・・・・そんなことでは歴史小説も何も見れない」と思われるでしょうね。しかし、まあ、そんな石頭なファンもいたって事で、収めてもらえませんか?
(程度問題であることは心得ているつもりです)

(独白・・・まあ、自ら望んだこととはいえ、サンドバック役も辛いわ(笑)、もちろん、つきあっておられる方もしんどいでしょうけど・・・・ただ、決して論戦を望んでいるわけではないんだけどな・・・・制作側に物申したいんだけどな・・・・結構、叩かれるよな(ボソッ・・・苦笑)

以上
Commented by ブラック奄美 at 2011-04-28 03:17 x
真面目な補足です。私、個人の問題ですが、歴史認識の重要度を幕末以前と、以後とでは少し分けて考えています。その理由は、現存する史料の精度の高低と、現代の私達に対する影響度に違いがあるのではないか・・・・と思うからです。ということは、頼朝、政子のロマンスと、篤姫のロマンス(・・・があったとすればですが)、篤姫のロマンスの方を重く見ます。これも、私個人の問題ですが、歴史認識の程度問題に軽重を与えています。
Commented by sakanoueno-kumo at 2011-04-28 03:43
< ブラック奄美さん
>なぜなら、坂雲君に輪をかけておしゃべりな友達がクラスには他に沢山いたからです
その根拠は、実証的な根拠ではありません。
その子の主観です。
その子には、他の子の方がお喋りに思えたということです。
それが根拠になるならば、これまで私が言ってきたことも、理解出来るはずです。

秀吉という人物が、立身出世が誉れと思えた昭和の時代には、英雄に思えた。
しかし、地位でその人の価値は計れないといった平成の価値観では、出世のみに固執する秀吉は醜悪に見え始めた。
5年の担任と6年の担任の私に対する見解が違ったように、価値観で史観は変わるものなのです。
(続く)
Commented by sakanoueno-kumo at 2011-04-28 03:45
< ブラック奄美さん
尚五郎と篤姫、竜馬とお田鶴さんの設定についての私見です。
田渕さんが篤姫と尚五郎を旧知の仲に設定したのは、薩摩藩の藩益のために将軍家に嫁がされた篤姫だったはずが、最終的には薩摩藩と敵対する関係になってしまった不幸。
篤姫のその辛い立場を、より視聴者に伝えるために、薩摩に心が通じ合った存在を作りたかった。
しかし、それを西郷や大久保にしてしまっては、余りにも現実味がなさ過ぎ。
そこで色々調べた結果、家格も吊り合い、地理的環境も近い、尚五郎がターゲットとなった。
つまり、貴兄が嫌う、物語の設定の都合で作られたフィクションです。

竜馬とお田鶴さんの設定はどうか。
当時の土佐藩の身分制度の厳しさを、より読者に伝えるため、さらには、竜馬が身分制度というものに疑問を抱くキッカケ作りとしても、家格の違う二人の色恋話しの方が、より伝わりやすかった。
これも、貴兄が嫌う、物語の設定の都合で作られたフィクションです。
(続く)
Commented by sakanoueno-kumo at 2011-04-28 03:46
< ブラック奄美さん
これは、作家なら誰でも使う常套手段で、これを否定してしまうと、物語は成り立ちません。

誤解しないで欲しいのは、私が『篤姫』を名作だと思っているからといって、貴兄にも名作と思え、と言っているのではありません。
何度も言ってきましたが、面白い、面白くないの評はあって当然だと思います。
田渕さんの史観は、自分には合わないという意見も、あって当然でしょう。
私が言ってるのは、史料ありきの物語でなければ認められないといった意見に異論を唱えているのです。
それは、物語とは言わないのでは?・・・と。
Commented by ブラック奄美 at 2011-04-28 04:15 x
RESありがとうございます。又、真面目な話、お付き合いいただいて感謝します。ちょっと、このあたりでいったん置きませんか?又、明日も仕事かと思いますし・・・・。私も、もう一度良く考えておきます。ありがとうございました。
Commented by ブラック奄美 at 2011-04-28 12:41 x
>坂雲さん

もう一度、自分の視聴態度を見直してみましたが、基本的にはやはり最後に坂雲さんが整理して指摘されたとおりです。自分の生理的な部分も大きいのだろうと思います。端的に言うと、「だったら恋文のひとつでも見せてくれ」であり、「物語の設定の都合で作られたフィクション」は嫌いということです。(続く)
Commented by ブラック奄美 at 2011-04-28 12:44 x
話を超単純化するために「加点減点方式」という言葉を用いますが、篤姫と尚五郎の密会は、当時の風俗習慣から照らし合わせて一般的には有り得ないということが見えてくれば(もちろん、例外ケースの議論はあると思いますが、ここでは通念的な話を進めます)、歴史ドラマという枠組みのなかで私の中ではどうしても減点になってしまいます。そして減点部分がドラマの根幹に存在し、なおかつ頻繁に表面化してくると、減点度合いはより一層深まってきます。この減点をカバーして余りある「加点部分」が見えてこないと、私の中ではその作品が評価できるものとして浮上してこないのです。「竜馬がゆく」に関しても、竜馬を取り巻く女性事情は相当にフィクションの部分が多いのだろうと思います。しかし、この減点部分を補って余りある加点部分が多いので、「竜馬が行く」は自分の中で評価できる作品として存在しているのだろうと思います。
(続く)
Commented by ブラック奄美 at 2011-04-28 12:47 x
こうして見直してくると、どうしても私は「史料至上主義」「因果関係至上主義」のようです。これは、自分の中でおいそれとは譲歩することができません。・・・・が、仮に目をつぶったとしたら、その先に見えてくるものはなんだろうか?代償はなんだろうか?・・・とそんな思いで、「田渕氏」の思想を探しているところです。話がオールフィクションだと、ずいぶん楽です。そういう意味で「仁」は「楽しめました」し「考えさせられました」
Commented by ブラック奄美 at 2011-04-28 13:19 x
補足です。「竜馬が行く」に関しては、司馬氏自身も「フィクション」と定義づけされているようですが、これまでの私の発言や私の評価は「ノンフィクションに近い歴史小説」という前提で進めています。そして、この小説を再度見直す等、より理解が深まったとして、目に余るフィクション部分が相当に多く、又、これまでの加点部分が大幅に減点に転ずるようなことがあれば、例え司馬氏の作品といえど、評価は落とします。
Commented by sakanoueno-kumo at 2011-04-29 03:43
< ブラック奄美さん
連日の徹夜仕事で意識が飛び始めている私です(苦笑)(こんな生活なので、先般の件ご容赦ください)。

人それぞれの考えがあって然りなのですが、それでもやはり合点がいかない部分があって、しばし補足させてください。
貴兄がいわれるところの「史料至上主義」ですが、気分を害されるかもしれませんが、私から見れば、「手前勝手な史料至上主義」と言わざるを得ません。
というのも、貴兄が名作だと評価される「独眼流正宗」のような重厚感のある作品とて、その主義に見合ったものではないからです。
というと、おそらく貴兄は「それらの作品は、たとえ虚構であっても先人たちに敬意を表している。」と反論されるでしょう。
それが、そもそも偏った史観だと思うんですね。
(続く)
Commented by sakanoueno-kumo at 2011-04-29 03:43
< ブラック奄美さん
私は、これらの作品は武士という階級に生きる人間を、必要以上に美化した、かなりデフォルメされた武将像だと思っています。
「武士像美化史観」とでも名づけましょうか・・・。
武士の精神を尊び、武将は常に誉れ高き人物でなければならない。
戦場のシーンでは、へっぴり腰になって逃げ惑う兵士などひとりも存在しない。
武士とは、現代に生きる私たちには想像もつかないほど、強い精神の持ち主でなければならないのです。

一方で、武士という人種がひじょうに人間的に描かれた作品があります(近年の作品は概ねそうですね。)。
そこに出てくる武士は、我々と変わらない悩みを抱えていたり、臆病になったりします。
「武士像人間化史観」とでもいいましょうか。
武士といえども人間、臆病風にふかれることもあれば、くだらない冗談を言って笑うこともある。
戦場においては、ずっと後方に隠れて震えている兵士もいるわけです。
(続く)
Commented by sakanoueno-kumo at 2011-04-29 03:46
< ブラック奄美さん
前者は、歌舞伎や講談、浪曲などの流れをくむ虚構といえますし、後者は、現代劇をそのまま歴史の舞台に擬えた作品といえるでしょう。
どちらがカッコイイかといえば、文句なしに前者ですが、どちらにリアリティを感じるかといえば、私は後者を選びます。
武士とて私たちと同じ血の通った人間、本質は変わらないと思います。

で、どちらの見方が好きかという意見は様々だと思いますが、どちらの史観が正しいかというものではないのです。
いってみれば、どちらも正しいところもあり、どちらもデフォルメされたところが多分にあるのです。
貴兄が前者が好きなのはよくわかりました。
しかし前者とて、おっしゃるような史料に裏打ちされた史実に近い作品ではありません。
どちらが好きかという意見はあって良いと思いますが、ご自身が認める作品がより史実に近い正しい史観で、認められない作品は間違った史観だと言い切るのは、偏見であり、手前勝手ではないでしょうか。
Commented by ブラック奄美 at 2011-04-29 12:37 x
>坂雲さん

まず、貴兄が用いられている単語の意図に関して教えていただきたいのですが・・・・・・。

>「ご自身が認める作品がより史実に近い正しい史観で、認められない作品は間違った史観だと言い切るのは、偏見であり、手前勝手ではないでしょうか。」

「正しい史観」⇒これまでの私の発言の中で、自説について「正しい」という単語を直接用いた箇所があったでしょうか?永きにわたっての話になっていますから、私自身が忘れていたり、自己矛盾を起こしている箇所があるかもしれません。そのときはお詫びします。できればその箇所をコピーしていただきたいです。尚、自説を自分で支持するのは当然のことです。そして議論の内容を簡略化するために私は「自説を正しい」と主張しているといわれるのであれば、「正しい」という単語の意味は理解します。

「間違った史観」⇒「田渕氏」他の見方を私は否定的に捉えていたことは確かです。「お花畑的」「スイーツ」と評したこともありました。しかし「間違った」という単語を直接的に使用していた箇所があったでしょうか?これもできればコピペ願います。(続く)
Commented by ブラック奄美 at 2011-04-29 12:40 x
「認められない」⇒否定的なのは確かなのですが、「認めない」のであれば、「田渕氏の思想を探そう」ともしないのではないでしょうか?少なくとも私は、再度の理解を試みようとしているのですが。

「言い切る」⇒ううん、私はそこまで強くはありませんが(苦笑)

「手前勝手ではないでしょうか」⇒この言葉を最後に投げ捨ててコメントを終えれば、ある意味「捨て台詞」であり、相手によってはケンカになってしまいますよ。必要以上に相手の立場を悪くしているとも言えると思います。

少々不思議なのは、私は、貴兄の発言に異を唱えているわけでもなければ、論戦をしているわけでもない。おもに制作者に向けて私の考えを発言しているだけなのですが、なぜ直接的な被害者でもない貴兄から「捨て台詞」的な言葉まで投げつけられないといけないのでしょうか? まあ、用意したコメントはこの後アップさせてもらいます。この手の話は今回限りにしたいものです。
Commented by ブラック奄美 at 2011-04-29 12:50 x
(以下、本文です)
坂雲さん、RESありがとうございます。だいぶ、いろいろと見えてきています。このRESも、多分とりとめも無く長くなりそうなので、書き忘れないように最初に書いておきます(笑)

「私が嫌いなものは何か?私が嫌いなものは臆病風に吹かれた武将や後方で震えている兵士では多分無い(笑)・・・私が嫌いなものは、何の根拠(史料)も無しに(もしくは視聴者に無い様に思わせて)そのように設定して平然とした態度でいられる制作側の姿勢が嫌いなのです・・・多分(笑)」

話をすり替えている・・・つもりは無いのですが、話が長きにわたってきていますので、自分自身で気づかずに自己矛盾を起こしているかも知れません。もし貴兄において引っかかる点があればご指摘下さい。

「田渕氏の史観」・・・・が嫌いなのでは多分無いと思います。「田渕氏の史観の根拠が今の私には見えない、理解できない、そして田渕氏側も示そうとしているように見えない」事が嫌いなのだと思います。そのような状態の中で「ドラマの都合だけが表面化するので」余計嫌になっています。根拠が見えれば、まずはついていけると思います。史観の好き嫌いは根拠が見えてからの話です
Commented by ブラック奄美 at 2011-04-29 12:56 x
そして「人間の本質から照らし合わせて、昔の侍も現代的で無かったのか?」という思考は、形而上学というのでしょうか、存在し得ることは理解できるものの、私自身の物にはならないのです。(これは決してその思考を攻撃したり批判するものではありません。そもそも拠って立つ土俵が違うのですから議論にもならないですよね(笑)では、どういうことかといえば、「現代的であると設定する根拠」「そしてその根拠を示そうとする姿勢」がものすごく好きです。「昔の兵卒の心得は実は現代の「ゆとり教育」であった!?」でも何でも構いません。何でも構いませんというのは、これまた無節操に聞こえると思いますが、まずは「根拠となりうるもの」を示して欲しい。そしてその「根拠となりうるもの」が客観的か否かの評価作業は又、次の段階の話です。私としては「根拠となりうるものが見えた上での歴史小説」はOKです。「こう設定すればドラマとしては面白いから・・・」は、私が言う根拠にはなりません。(続く)
Commented by ブラック奄美 at 2011-04-29 13:47 x
好き、嫌いの話で言うと、「根拠無き賞賛」と「根拠無き侮蔑」であれば、「根拠無き賞賛」の方が好きです。「根拠無き敬意」と「根拠無き軽蔑」であれば、「根拠無き敬意」の方がまだ好きですね。

・・・・呆れますよね(笑)。もはや小説論とかドラマ論ではありません。ロマンチストのかけらもありません(笑)。「史料史料というが末端の一兵卒の史料など残っているはずも無く、そのあたりまさに作者の史観で表現するしかないじゃないか!」というお怒りの声もどこからか聞こえてきそうです(笑)分かります。(続く)
Commented by ブラック奄美 at 2011-04-29 13:48 x
坂雲さんもご指摘の通り、私の話は確かに、歴史小説や歴史ドラマの本質からかなり飛躍してきているようです(笑)。実は以前ブログをやってた頃から、今日に至るまでの間に、歴史小説や歴史ドラマに対しての自身の見方は相当に変わってきています。大岡昇平氏がかつて言われたように、所詮「歴史小説とは歴史の舞台を借りた現代小説(借景小説)」に過ぎないのかな・・・と、少々寂しい想いですね。「独眼流政宗」に関しても私の「賞賛」という現時点での基本姿勢は変わらないのですが、以前に比べて相当に慎重になってきています。正直いって、ドラマに対して「騙されないぞ」という警戒の念といいましょうか(笑)。そして相当に柔軟にもなっています。(続く)
Commented by ブラック奄美 at 2011-04-29 13:51 x
「独眼流政宗」に限らず、「関が原(森繁久弥主演)」なんかもそうですが、特に主人公の色恋沙汰だけに限らず、政治的な駆け引きなどを表現するシーンにおいてさえも、かなり大胆に虚構(騙し)が使われてきていることを、後になって確認してきています。「騙し」は正直本当に勘弁して欲しいです。(もちろん、制作側は騙す意図など無いのかも知れませんが)真面目に観てきているものが、バカを見せられた気分になります。そして、過去の歴史小説、歴史ドラマ、偏った史観のもとに創られているそのようなものに対しては「警戒」を持つようになってきています。ですので、最初から「ドラマの都合が見え見え・・・・・」っていうのは、私の中では相当に減点です。(続く)
Commented by ブラック奄美 at 2011-04-29 13:52 x
では、なぜ、もしかしたらそのような「騙し」「偏った史観」に彩られているかもしれない「独眼流政宗」を賞賛するのか?これはまず、「政宗」が残してきた為政者としての「業績」、軍人としての「戦果」を現代に生きる私が確認、評価することが可能で、そのような物を生み出した政宗の人間性や人生訓が視聴者にも見える「根拠」や「因果関係」の元で、ドラマの中に表現されてきたからです。私の中で大きな「加点」ポイントです。ただ、貴兄も言われるようにそのような表現それ自身も、制作者の「史観」に彩られたものですよね。ですのでかつて「賞賛」した作品でも「見直し」が必要だとは考え始めています。「過去との不断の会話」はせざるを得ないですね(苦笑)私が最上に評価している「白虎隊」「田原坂」「五稜郭」も又、後になれば評価は変わるかも知れません。

「歴史の評価は常に現在進行形」・・・・このことも最近になって意識し始めています。ただ、その評価作業に、その時代の世相や価値観がどれだけ入り込んでくるものなのか?・・・・・このあたりは正直良く分かりません。自我の強い、自己目的意識の強い評価者にとっては関係の無い話のようにも思えます。(続く)
Commented by ブラック奄美 at 2011-04-29 14:01 x
余談ですが、私は「歴史誕生」から「そのとき歴史が動いた」に到るまでの歴史検証番組がものすごく好きで、ずっと観てきていました。あの番組も、視聴者からは「片手落ちの結論だ」と良く批判はされていました。しかし、例えば新説を実証するのに、もし史料が見あたらないなら、現地に赴いて、地質調査や科学実験まで試みようとするあの番組姿勢を高く評価するものです。私の歴史を観る姿勢が「ロマン」ではなくて「教科書的」である所以かも知れません。そしてあの番組で流されていた寸劇は・・・・確かに「歴史ドラマ」ではなかったですね(笑)。でもあの寸劇から受ける感銘も私の中では大きいものがありました。(終わリ)

追伸:貴兄の前回のレスのアップ時間を見れば、なんと03:43ではありませんか。決して無理はされないで下さい。なんなら「読んだ!」の一言だけでもいいですよ。尚、お蔭様で私の方も今後、忙しくなりそうです。チェックは従来同様に頻繁にさせていただきたいのですが、コメントのアップの頻度は減ると思います。
Commented by タブチ君 at 2011-04-29 16:09 x
ブラック奄美さん今日は。
両者よりご指摘いただければ、という文言がありましたので、お言葉に甘えてまたまた出てきました。私は、もともとこういう討論は嫌いではないですが、さぞや貴兄にはお疲れのことと察します。
さて、いきなり本論に入ります。
上記のコメントを読んでも、ブラック奄美さんの言わんとしていることが、相変わらず私にはどうもよくわからない。
そうすると、貴兄における歴史ドラマの有り方は、限りなくドキュメンタリーに近いほど良いのだ、ということでしょうか?
かつて、ソ連全盛時代、<モスクワ攻防戦>、<レニングラード攻防戦>という映画を見たことがあるでしょうか?これはドギュメンタリー映画ではなく、制作したドラマです。それも国家をあげて、とてつもない物量、金を投資したケタはずれの戦争映画です。まさにその当時の攻防戦を直接視たような迫力です。多分、当時のドイツとの攻防戦をでき得る限り史実に忠実に再現したのでしょう。
ー続く
Commented by タブチ君 at 2011-04-29 16:10 x
が、当時の映画評論家及び現在でも誰一人この映画を名作と言うものはおりません。
私もその迫力には度肝を抜かされましたが、ただそれだけ。何の感動もありませんでした。
なぜか。人間がまったく描かれていないからです。ドンパチの再現は史実に則して描写されたとしても、ドラマになっていない。人間が登場していなくて人間ドラマになっていないからです。貴兄の言わんとしていることを忠実に再現しようとしたら多分こういう映画になるのではないか、と思われます。なぜなら、時代劇の台詞は、すべて創作です。刑事訴訟法での論述ではないのですからそのセリフの資料的根拠など絶対に皆無です。
とすると、根拠がないセリフは、極少にして、ひたすら戦闘シーンばかりに焦点をあて、
例えば、関が原、というドラマは完了することになります。
なぜこのようになるのか。それはこうした思考方法は、唯物論に根ざしているからです。
先にも少し触れましたが、人間が物を認識する場合、究極的には唯物論か観念論、どちらかを採用せざるを得ない。簡単に言うと、物が在るから在ると認識する、一方の観念論は、視ようとする心が在るから在ると認識できる、ということです。
ー続く
Commented by タブチ君 at 2011-04-29 16:12 x
唯物論的思考方法に基づく歴史とは、あるがままに再現しなければ、純粋ではない、ウソの歴史だ、と思考するのだと思われます。そういう意味で貴兄の思考方法はひじょうに唯物的だと思われます。さらに言えば、にもかかわらず、司馬氏の世界は認める、という所に矛盾が生じております。唯物論を信奉しながら(意識的か無意識的かは問題ではない)、歴史小説において架空人物の登場まで許容するというまさに観念論的世界をも認めるという矛盾。したがって、貴兄の混迷は、唯物論と観念論が同じ比率で混在している。だから自分の中で歴史というものが、体系化できない苛立ちなのだと思われます。
Commented by sakanoueno-kumo at 2011-04-29 17:27
<ブラック奄美さん
>「最初に史料ありき」といったスタンスで構築された史観に出会ってみたい
>「根拠」をもって培ってきた「史観」は逆に言うと、世相が変わろうとも変化するものでもない
>ドラマの展開がいかに秀逸なものであろうと、もうそのドラマに対する「信頼感」は失せてしまう
>根拠が希薄な史観がもし一人歩きするようなことがあれば、事と次第によっては過去に実存した人物の「名誉毀損問題」にもなりかねない

あからさまに「正しい史観」という言葉を使われてはいませんが、上記のコメントからみるに、これまで私が述べてきた「史観というものはひとつではないんだ。」「史実と史観を混同してはいないか?」という意見を否定し、「史料に基づく“王道史観”というものがある。」とおっしゃっているではありませんか。
(続く)
Commented by sakanoueno-kumo at 2011-04-29 17:29
<ブラック奄美さん
史料に裏打ちされた史観でなければ、たとえそれがドラマであってもあってはならない、とおっしゃっていながら、その矛盾点を司馬氏の作品などであげると、減点部分を補って余りある加点部分が多ければ認められる、とおっしゃる。
これを、私は「手前勝手な史料至上主義」なんじゃないですか、といっているのです。
結局それって、史料至上でもなんでもなく、“好む”か“好まざる”かの話ではないんですか?・・・と。
(続く)
Commented by sakanoueno-kumo at 2011-04-29 17:30
<ブラック奄美さん
>が、仮に目をつぶったとしたら、その先に見えてくるものはなんだろうか?代償はなんだろうか?
ここが一番カチンときた部分です。
“目をつぶる”ってどういうことですか?
“代償”ってなんですか?
“目をつぶる”というのは、相手が明らかに間違っている場合において、それを一旦棚上げし、相手の立ち位置に自身のレベルを下げるという意味に使う言葉です。
つまり、百歩譲って許すということ。
これは、「自分の見方が正しい」と言っていることと同じではありませんか?
“代償”とは、犠牲のこと。
そんな“代償”を払ってまで見なければならないほど苦痛なものならば、「だったら見なければいい。」という結論に達さざるを得ません。
(続く)
Commented by sakanoueno-kumo at 2011-04-29 17:31
<ブラック奄美さん
“根拠”という言葉を多用されていますが、定義が曖昧ですよね。
途中までは「根拠=史料研究が多岐にわたり、深く掘り下げられた結果」とおっしゃっておられたのに、最後にいただいたコメントでは、「不確かなものでもいい。その根拠が客観的か否かの評価作業は次の段階の話。」といっておられる。
話がすりかわっていませんか?
>「根拠無き賞賛」と「根拠無き侮蔑」であれば、「根拠無き賞賛」の方が好き
どの例が賞賛で、どの例が侮蔑なんでしょう?
察するに、今年の大河の秀吉の描かれ方などは、貴兄の言うところの侮蔑なんでしょうね。
誉れ高く描かれたら賞賛で、醜悪に描かれたら侮蔑なんですか?
私は違うと思います。
その人物を見る視点の問題だと思います。
物語の主眼をどこに置くか、それだけでも人物像は変わるのです。
「関ヶ原の戦い」を、徳川方の視点で見るか、豊臣方の視点で見るかで、淀殿の人物像など180度変わります。
賛えて描くことが敬意であるならば、歴史上の偉人は皆、誉れ高い人物ばかりになります。
(続く)
Commented by sakanoueno-kumo at 2011-04-29 17:32
<ブラック奄美さん
ご自身でも認めておられるように、もはや小説論とかドラマ論ではありません。
もっといえば、歴史という枠組みにおいても、かなりひとつの角度からしか捉えておられないように思えます。
歴史は史観によって評価が変わって当然なのです。
>では、なぜ、もしかしたらそのような~~制作者の「史観」に彩られたものですよね。
そのとおりだと思います。
ですが、それは「騙し」ではありません。
それも、物語としてのひとつの史観なんです。
何度もいいますが、貴兄の言われるような“王道史観”など存在しません。
よって、貴兄が名作だと評価される作品を、もう一度見直して疑ってかかる必要などありません。
私は『独眼竜政宗』が大好きでした・・・それでいいじゃないですか。
なぜそこまで頑なになられるのかが理解できません。
(続く)
Commented by sakanoueno-kumo at 2011-04-29 17:32
<ブラック奄美さん
貴兄は、今年の大河が始まる念頭において、『本作品では、史実云々というところには主眼をおかず、ストーリーテラーとしての田渕さんに着目していきたい。』といっておられましたよね。
しかし、蓋を開けてみると、貴兄のコメントがどんどん硬化していっていることにお気づきでしょうか?
>再度の理解を試みようとしている
とは、とても思えないんですけどね。
「面白くない」と言っている人に、「面白いと思え」というつもりは毛頭ありませんが、理解を試みようとしているのであれば、まずは貴兄のこだわりである固定観念から脱却すべきではないでしょうか?
今までと同じ観念を持ったままで、今まで受け入れられなかったものを理解しようと試みても、無理なことではないでしょうか。
Commented at 2011-04-29 21:07 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by sakanoueno-kumo at 2011-04-30 00:56
< 04-29 21:07の非公開コメントさん。
ていうか、非公開では返答しづらいので、申し訳ありませんが明かしますね、ブラック奄美さん。
途中から激しい議論になってしまいましたが、私も、論破することが目的ではないことをご理解ください。

まとめます。
タブチ君さんの言われるマルクスの唯物論では、簡単にいえば、歴史は物証によってすべて説明し得るという史観です。
そしてその唯物論の果てにマルクスが目指した共産主義が、20世紀末にどういう結果になったかは、いうまでもありませんね。
もちろん、これも現在進行形の史観でもありますから、全否定はしません。
一方で司馬さんを代表とする観念論では、歴史は人の心(思想)によって作られてきた、とする史観。
だから、容易に説明がつくものではありません。
しかし、だからそこにロマンを感じ、現在では学者さんですら崇拝するわけです。

これまで議論をしてきて双方の考え方に大きな相違点があるのは明確ですが、ひとつだけ理解できるのは、貴兄が大変真面目な方だということ。
だから、今後も遠慮せずにコメントいただけることを望みます。
Commented by ブラック奄美 at 2011-04-30 07:06 x
>坂雲さん ありがとうございます。

最後に、タブチ君さん及び貴兄よりいただいたご指摘に対し、可能な部分でレスだけさせてください。

>タブチ君さん

>限りなくドキュメンタリーに近いほど良いのだ、ということでしょうか?

⇒全くその通り・・・でした。しかし、その後の貴兄のコメントも拝見しつつ、自身で再考し、ハタと行き当たってしまったことがありました。自分が感銘を受けた「その時歴史が動いた」の中の寸劇です。確かに俳優を使った動画ではありましたが、思い返すと、実は音声は「台詞」ではなくて、これすべて松平アナの「ナレーション」によるものでした(爆)自分が最上に評価していたものが、実はドラマではなかったという矛盾が決定的になりました(笑)再度「歴史ドラマ」なるものを良く考え直す必要に迫られています。

>唯物論を信奉しながら、歴史小説において架空人物の登場まで許容するというまさに観念論的世界をも認めるという矛盾。

⇒矛盾というより、この点が「ドキュメンタリー的であれ」とする歴史ドラマの中での、ドラマとしての「妥協点」なのではないか?・・・と自分は考えておりました。(続く)
Commented by ブラック奄美 at 2011-04-30 07:08 x
>坂雲さん

>騙し・・・・

⇒自分の中で最大の「騙し」であったのが、「関が原(森繁久彌氏主演)」において、石田三成が仇敵である徳川家康の伏見屋敷に逃げ込むくだりです。あれは私は「史実」であるとずーっと理解していました。しかもその後の「関が原」があるドラマにおいて、恐らくすべてといっていいほど、繰り返されてきたシーンです。そして自分の中でこのシーンが石田三成に対しての敬意を形作る大きな要素であったので、その反動はとてつもなく大きいものでした。はっきりいってトラウマです。自分の中で「歴史ドラマ」が多いに価値を下げた瞬間でもありましたし、自分がブログを閉じた契機の一つともなりました。以後、私はあらゆる「歴史ドラマ」に対して無意識的に「警戒」を抱くようになっています。司馬氏の作品に対してもそうです。司馬氏の作品を評価しつつも、そうでないように見える私の発言の原点です。「白虎隊」以下の三作品を評価しつつも見直す必要もあると考えている所以でもあります。私がとにかく、ドラマの制作事情を調べようとする所以でもあります。(続く)
Commented by ブラック奄美 at 2011-04-30 07:13 x
今から思えば、もちろん制作側には騙す意図など毛頭無かったのでしょう。しかしまさに「ドラマを面白くするため」の最も効果的な「仕掛け」であったと思ってます。このトラウマが、ブログを閉じて以降、歴史ドラマを再考しようと思い立った原点です。今も続けている「歴史ドラマ」の追求の大きな目的の一つは、この自身のトラウマの解消でもあります。そしてこの追求は「些細なことで中断すべきでは無い」と自分の中で思い立ちました。ただこのトラウマは容易なことでは解決しないと思っています。

まあ、これだけ大きいトラウマですので「こう設定すればドラマとしては最も面白くなるから」なんていう発言は、正直、悪夢です。勘弁して欲しい。この事情が見えただけでアウトです。・・・・ですが、最近少し考えも変わりました。「この事情」が事前に見えている・・・ということはある意味「救い」なのではないかと。そういった前提で、見直すこともできますから。ただ、ここまでくれば殆ど「オールフィクション」として鑑賞することになりますが、このスタンスで田渕氏の作品を観ていこうとしています。(続く)
Commented by ブラック奄美 at 2011-04-30 07:14 x
・・以上です。この私のレスに対して御両者からはできれば「読んだ・・・」という短い意思表示だけいただけるとありがたいです。もし仮にこのレスに対して長文のレスをいただいたとしても、私はそれに対して又、お返事をすることは憚られます。なぜなら、それはやはり、「私の理解促進の為に」御両者に膨大な手間をおかけする結果になるからです。又、私自身の「ゆとり」の問題も出てきましたので、これからは基本的に「拝見する」スタンスに回らせていただきます。以後も、宜しくお願いいたします。
Commented by タブチ君 at 2011-04-30 11:46 x
坂雲さん、ブラック奄美さん今日は。
私は、夜パソコンをまったく開きません。翌日になってパソコンを開くと、時には深夜まで白熱した議論を重ねていたのをみると、そのエネルギーにまず驚かされ、また真摯な議論に楽しくもなります。他のブログではなかなかこういう所はないのではないかとブログ開設者である坂雲さんに感謝する次第です。
さて、私がここに参加させてもらうようになったのは、つい先日でそれ以前のコメントというものは、申し訳ないですが、ほとんど読んでおりません。で、ブラック奄美さんの言わんとすることが、直前のコメントで、おぼろげながらわかってきたような気がします。
坂雲さんとか私とブラック奄美さんとでは根本的に発想が違うのではないか。
つまり、ブラック奄美さんの<歴史>にたいする発想は帰納法的に捉えている。
ー続く
Commented by タブチ君 at 2011-04-30 11:47 x
考古学でいう瓦礫の破片をひとつづつ繋ぎ合わせていくと、自動的客観的にある時代がみえてくる、ある人物像ができあがる、というふうに捉えているのではないか。
そうではない、歴史とは、あくまで人間が、後世記述したものであるからそこに何らかの意図があり、演繹的に記述されたものである、というのが、たぶん坂雲さんも同じだと思われますが私の考えです。
ましてや、歴史ドラマであるならば、先に結論ありきの演繹的発想、演繹的構成によって制作しなければ、物語として成立しないのはあたり前だと思われます。
司馬氏は膨大な資料の中から物語を組成していることは認めますが、自分の意図する方向性によって当然そこに取捨選択があることは想像に難くありません。
ー続く
Commented by タブチ君 at 2011-04-30 11:48 x
唯一、帰納法的方法に近い形で制作したのが昨年の伝ではないか、推測します。
4部構成にして、その終了した時点で、その4部が合成されれば自動的に新しい龍馬像が見えてくるのではないか、という発想があったのではないか、と。
その甘い考え、というよりも間違った発想があの無残な大失敗だと思われます。
序盤での、戦はイカンゼヨ、日本人同士争ったらイカンゼヨ、の繰り返し。では四境戦争をどう位置づけるのだろうか、と心配していたらやはり、<坂本さんのウソはみんなを幸せにするウソ>、となってしまった。
このように歴史、ましてや歴史ドラマにおいては、帰納法的発想は成立しないものだと考えます。
Commented by ブラック奄美 at 2011-04-30 18:28 x
タブチ君さんありがとうございます。助かっております。短いレスだけさせてください。

>考古学でいう瓦礫の破片をひとつづつ繋ぎ合わせていくと、自動的客観的にある時代がみえてくる、ある人物像ができあがる、というふうに捉えているのではないか。

⇒私の考え方は、まさにこれに近いものでした。「近いものでした」というのは、「繋ぎ合わせていくと」という部分をさほど厳密には考えておりませんでした。

歴史ドラマ制作における「帰納法的」アプローチの可能性の、論理的かつ現実的な「完全否定」が見えたときに、私の中のわだかまりは終わりそうです。
Commented by sakanoueno-kumo at 2011-04-30 19:31
< ブラック奄美さん
< タブチ君さん
短く・・・とのことですが、長いコメントになることをお許しください(苦笑)。

三成が家康の向島屋敷に逃げ込んだという逸話は、ブラックさんと同じく史実とだと思っていた歴史ファンが多かったのではないでしょうか。
私も最初はそう思っていました。
確かにつくり話だったと知ったときは、少々ガッカリでしたね。
ただ、その後の理解の仕方が私とブラックさんとでは違います。
私は、なぜそのような逸話が生まれたのか、と考えました。
そして読み調べていくうちに、ひとつの私見にたどり着きました。
この説の出典は、明治期に執筆された史料に記載されているもので、江戸期に記された史料には見当たらないことから、今では明治以降に作られたフィクションという見方が一般的です。
しかし、ここで考えたいのが、江戸期の史料が信頼出来るかといえば、そうではないということです。
(続く)
Commented by sakanoueno-kumo at 2011-04-30 19:32
< ブラック奄美さん
< タブチ君さん
江戸時代、三成は悪人と見なされていました。
徳川幕府政権下ですから当然ですよね。
三成の評価を高めるような史料は、封印されてきたと考えるのは難しくありません。
しかし、三成に対する高評価は“言い伝え”という形で、特に領地であった近江などに残っていたといいます。
そんな三成が、再評価され始めたのが明治後期だったといいます。
徳川政権下の史料は、三成を奸臣と評した史料ばかりだったでしょうから、客観的に評価するのは容易なことではなかったでしょう。
多分に、この“言い伝え”レベルの評が盛り込まれたことだろうと想像します。
そんな“言い伝え”の中に、この逸話もあったのではないか、と考えました。
上記はあくまで私見です。
(続く)
Commented by sakanoueno-kumo at 2011-04-30 19:33
< ブラック奄美さん
< タブチ君さん
現在では、“言い伝え”レベルの逸話は学術的には史料として見なされませんが、“言い伝え”だから100%信頼できないということもないと思います。
尾ひれがついた“言い伝え”もあれば、正確に伝わっている“言い伝え”もあるはず。
逆にいえば、史料といえども、江戸期の三成の史料でもわかるように、その時代の政治的理由や価値観で操作されているものなのです。
だったら、ドラマや小説には、“言い伝え”レベルの逸話が盛り込まれてもいいはず、そこが、学問の歴史とは違うところではないでしょうか。
(続く)
Commented by sakanoueno-kumo at 2011-04-30 19:34
< ブラック奄美さん
< タブチ君さん
あと、史料にも言い伝えにもない、物語としてのオリジナルの部分について。
タブチ君さんがおっしゃっておられる、瓦礫の破片をひとつずつ繋ぎ合わせていく作業は、すべての破片が揃っていないと完全な復元はできません。
破片が足りない部分は、想像で補うしかない。
そうして復元されたものは、おそらくこのような形だっただろうと考えられて復元されたものですが、でも、もしかしたら補った部分に、取っ手が付いていたかもしれないし、模様が入っていたかもしれない・・・本当の姿はわからないのです。
(続く)
Commented by sakanoueno-kumo at 2011-04-30 19:40
< ブラック奄美さん
< タブチ君さん
私は予てから、「史実とは歴史の断片に過ぎない。」と言ってきました。
史実の断片を繋ぎあわせても、歴史は見えてこない・・・足りないところは、想像で補うしかないのです。
大切なのは、その想像が的外れであっては史実の辻褄が合わなくなってしまうところ。
この人物なら、きっとこういう行動をしただろう、たぶんこんな台詞を吐いたんじゃないだろうか、ここを間違えると、物語を潰してしまい、歴史も潰してしまいます。
その失敗例が、タブチさんも言われるように、『龍馬伝』だったんじゃないでしょうか。
物語のクライマックスである「大政奉還」という歴史の断片だけを捉えて、龍馬を平和革命論者に仕立ててしまった。
そのため、四境戦争を始め物語道中の辻褄が合わなくなった。
そう仰りたいんですよね、タブチ君さん。

これでブラックさんに理解してもらったとは思っていませんが、とりあえずこの辺りでお開きにしましょう(笑)。
皆々様、長きに渡り、お疲れさまでした(笑)。
Commented by ブラック奄美 at 2011-05-01 01:43 x
坂雲さん

ありがとうございます。すっきりしました。大変感謝しています。私も今回の件、これで最後にいたします。

>石田三成の件⇒旧大日本帝国陸軍参謀本部編纂の『日本戦史・関原役』が出典らしいとこまでは、私も調べましたが、三成の客観的な史料が江戸時代に残っていないであろう事、明治期の三成史料に伝承レベルのものが入っている可能性について、私には私見といえども想像できませんでした。感謝しております。

>だったら、ドラマや小説には、“言い伝え”レベルの逸話が盛り込まれてもいいはず、
⇒私も全く同じ考えで、見解は一致しています。→「昔の兵卒の心得は実は現代の「ゆとり教育」であった!?」ややこしい言い方をしてしまいましたが、貴兄が言われるところの「言い伝え」のことです。そしてドラマの根拠としては存在しうるものであり、存在すればOkと考えるところも一緒です。関が原における三成の件は、少なくともドラマとしての設定根拠はあったわけだから、責めることはできない・・・ですね。

>「あと、史料にも言い伝えにもない、物語としてのオリジナルの部分」以降のくだり、理解できました。ありがとうございます

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