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江~姫たちの戦国~ 第41話「姉妹激突!」

 二条城で対面した豊臣秀頼の成長ぶりを見て、豊臣家を滅ぼす意思を固めたといわれる徳川家康だったが、何の理由もなく攻めこむわけにもいかない。家康にしてみれば、豊臣家と事を構えるための大義名分が欲しかった。その格好の材料にされたのが、方広寺鐘銘事件である。

 秀頼と淀殿は、豊臣秀吉没後から秀吉の追善供養として畿内を中心に寺社の修復・造営を行った。主なもので東寺金堂・延暦寺横川中堂・熱田神宮・石清水八幡宮・北野天満宮・鞍馬寺毘沙門堂など、85件にものぼった。この事業は家康が勧めたといわれ、その目的は、豊臣家の財力を削ごうという思惑があったといわれる。しかし、逆に豊臣家にしてみれば、今なお、秀吉の時代に劣らぬ力があるということを、世間に知らしめる目的があったともいわれ、家康の勧めとは関係なく、淀殿と秀頼はこの事業を熱心に進めた。

 そんな寺社復興事業の中に、かつて秀吉が建立し、地震で倒れたままになっていた東山方広寺の大仏殿の再建があった。そして慶長19年(1614年)、その修営もほぼ終わり、梵鐘の銘が入れられた7月になって突然、大仏開眼供養を中止するよう家康から申し入れがあった。その理由は、鐘の銘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」という8文字。この言葉は、「国家が安泰で、主君と家臣が共に楽しめますように」といった意味の言葉だったが、家康がいうには、「国家安康」という句は家康の名を切ったものだとし、「君臣豊楽、子孫殷昌」は豊臣を君として子孫の殷昌を楽しむと解釈、徳川を呪詛して豊臣の繁栄を願うものだと激怒した。

 これはおそらく言いがかりであり、家康が豊臣家から戦を起こさせるために仕組んだ挑発とみていいだろう。この策を仕組んだのは、本多正純以心崇伝といった家康の側近たちだったとされる。この言いがかりに、当然、淀殿は激怒した。事態を重く見た豊臣家の家老・片桐且元は、家康への弁明のために駿府へ向かった。しかし、且元は家康に会うこともできず、ようやく会うことのできた本多正純金地院崇伝といった家康の側近から、「淀殿を人質として江戸へ送るか、秀頼が江戸に参勤するか、大坂城を出て他国に移るか、このうちのどれかを選ぶように」との内意を受けた。且元は即答を避け、大坂への帰路に就いた。

 だが、且元の帰城と前後して、なかなか帰らない且元に業を煮やした淀殿は、側近の大野治長の生母であり淀殿の乳母でもある大蔵卿局を、第2の使者として家康のもとに送った。大蔵卿局が駿府に到着すると、家康は且元の時とは態度を180度変え、機嫌よく彼女と面会し、「秀頼は孫の千姫の婿でもあり、いささかの害心もない。家臣たちが勝手に鐘銘の件で騒いで難儀している」と話したという。それを聞いた大蔵卿局は、狂喜して大坂城へ帰った。淀殿は直接家康に会った彼女の報告を信じ、且元の持ち帰った3ヶ条を信用しないばかりか、「且元が家康と示し合わせて豊臣を陥れようとするものに違いない」と疑った。且元は、戦を避けるために家康に従うよう懸命に説いたが受け入れられず、やがて淀殿の信頼を失った彼は、大坂城を退去するに至る。同時に、且元と同じく非戦論を主張していた者たちも大坂城を追われ、秀頼と淀殿のもとに残ったは、大野治長をはじめとする主戦派の者たちばかりとなった。しかし、これこそが家康の仕掛けた策謀だった。事はすべて、豊臣氏討伐のために描いた家康の筋書き通りに運んでいた。

 というのが通説のストーリーで、ドラマもほぼ通説に沿って描かれていた。だが、本当に方広寺鐘銘事件が家康の仕組んだ言いがかりだったのかはわからない。もしかしたら、本当に家康のいうような理由が、豊臣側にもあったのかもしれない。ただ、事件後も鐘がそのままになっていることから考えると、家康はこの8文字を本当に呪詛の文字だとは考えていなかったとも思われ、やはり通説どおり後付の言いがかりだったと見ていいのかもしれない。片桐且元と大蔵卿局の件にしても、豊臣家中を混乱させるために別々の回答を与えたというの一般的な見方で、家康が後世に狸親父と評される代表的な逸話だが、これももしかしたら、淀殿の疑いのとおり且元が家康と内通していた可能性だって否定できない。結果を知っている後世の私たちは、結果から逆算して最もドラマティックな筋書きを信じそうになるが、史実は意外と単純なものだったりするものである。

 理由はどうあれ、片桐且元はこののちの大阪の陣で徳川方に従軍し、大坂城を攻めることになる。すべてが終わって焼け落ちた大坂城を目の前に、且元は何を思っただろう。その日から20日ほどのち、且元は突如の死を遂げている。享年59歳。この死は病死説もあれば、自責の念からの自決であったともいわれ、これも確かなことはわかっていない。ただ言えることは、且元の寝返りがあろうがなかろうが、もはやこの時点での豊臣家は、牙を剥き出した家康の敵ではなかったということである。


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by sakanoueno-kumo | 2011-10-24 02:24 | 江~姫たちの戦国~ | Trackback(3) | Comments(2)  

Tracked from ショコラの日記帳 at 2011-10-24 11:43
タイトル : 【江】第41回と視聴率「姉妹激突!」
【第41回の視聴率は、10/24(月)追加予定】豊臣は、家康の術中に嵌まってしまったみたいでした(汗)家康は、豊臣が方広寺に鋳造した鐘に刻んだ文字「国家安康」「君臣豊楽」に、徳...... more
Tracked from ショコラの日記帳・別館 at 2011-10-24 11:43
タイトル : 【江】第41回と視聴率「姉妹激突!」
【第41回の視聴率は、10/24(月)追加予定】 豊臣は、家康の術中に嵌まってし... more
Tracked from 早乙女乱子とSPIRIT.. at 2011-10-25 21:34
タイトル : 運命の決別 〜江・姉妹激突!〜
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Commented by SPIRIT(スピリット) at 2011-10-24 19:04 x
賤ヶ岳の七本槍として、豊臣をもり立てた且元も、時勢の流れには勝てなかったということでしょうか。(これは福島正則にもあてはまることですが)

僕自身は家康が二枚舌を行うことで、豊臣家に内部分裂を起こす目論みがあったと考えてますけどね。
ただ、それでも秀頼に味方する人間(真田幸村や後藤又兵衛といった浪人)が多かったのは計算外だったと思います。
Commented by sakanoueno-kumo at 2011-10-25 23:55
< SPIRIT(スピリット)さん。
コメントありがとうございます。
通説どおりならば、秀吉の死後、豊臣家の存続のために最も働いたのは、且元だったと思いますし、この時点で、豊臣家が生き残るにはもはや一大名になるしかないという正しい判断が出来たのも、且元だけだったでしょうね。
そんな且元が、結果的に豊臣を追われるはめになった・・・。

幕末、あの勝海舟が且元の墓を訪れて涙を流したというエピソードがあります。
薩長と幕府の間に挟まれて周旋に苦労した海舟には、豊臣家と徳川家の間に挟まれた且元の苦労がよくわかったのかもしれませんね。

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