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坂の上の雲 第10話「旅順総攻撃」 その1

 陸軍参謀本部は日露戦争開戦当初、「旅順攻略」という作戦は考えていなかった。「旅順攻略」は海軍から陸軍に要請され、急遽実施された作戦であった。なぜ海軍は旅順要塞の攻略が必要であったか・・・。要塞のある旅順港にはロシアの旅順艦隊がある。これを日本海軍は殲滅しようとし、奇襲作戦閉塞作戦を試みるも思ったような戦果を遂げることが出来ず、敵艦隊は旅順湾から出てこようとしない。旅順艦隊は、本国から回航されてくるバルチック艦隊の到着を待っていた。旅順艦隊、バルチック艦隊のそれぞれ個別で見ても、日本の連合艦隊とほぼ互角の力。ロシアとしては、バルチック艦隊が到着して旅順艦隊と合流すれば、その力は日本艦隊の2倍になる。そうなれば、日本艦隊に勝ち目はなかった。日本艦隊にしてみれば、バルチック艦隊の到着する前に旅順艦隊を1艦も残さず沈めておきたい。しかも、できるだけ早くそれを実行して、全艦隊を佐世保にドック入りさせ、軍艦を修理してバルチック艦隊を迎え撃つ準備をしておきたかった。日本海軍は焦っていた。

 しかし、要塞化された軍港内にいる艦隊を外洋から攻めてゆくというのは不可能に近い。どうしても敵艦隊を外洋へ追い出さなければならない。その追いだす方法として、陸軍をもって要塞を攻め、それを陥落させて陸から港内の艦隊を攻撃するというものだった。

 「旅順というものについて、陸軍の感覚は鈍すぎる。」
 というのが、秋山真之が常に感じてきたところだった。敵の旅順港内に、世界有数の大艦隊が潜伏していることの深刻さを、陸軍は理屈ではわかっていても、感覚上の激痛としてはあまり感じていないらしい。もし、この大艦隊が自由に海上にのさばり出れば、日本は海上補給を断たれ、満州に上陸した陸軍は孤軍と化し、敵の襲来を待たずして壊滅してしまうは必然。そうなれば、日本は日露戦争そのものを失うことになる。開戦当初予定になかった「旅順攻略」が、この段階では日本の命運を左右する重要な砦となっていたのである。しかし、陸軍参謀本部はそのことをどこまで深刻に捉えていたか、最初は旅順攻略に兵を割くことをためらった。あくまで陸軍作戦の本筋は満州平野であり、地名でいえば遼陽を制し奉天を制することにあった。それでも、海軍の執拗な要求にやがては屈し、乃木希典を司令官とする第三軍を創設し、それを遼東半島に送った。ただ、陸軍は旅順攻略などたいした時間はかからないだろうと楽観視しており、それは陸軍の頭脳・児玉源太郎といえども同じであった。

 乃木希典は東京を発つとき、「死傷者は1万人ほどで落ちるだろう。」と見ていた。その程度でしか旅順を見ていなかった。それを基準として攻撃法を決めた。その攻略法は、参謀長の伊地知幸介の頭脳からでたものである。ところが、第1回総攻撃だけで日本軍の死傷は1万6千人にのぼるというすさまじい敗北に終わり、しかも旅順を落すどころか、その要塞の鉄壁にかすり傷ひとつ負わせることも出来ず、要塞側の圧倒的な勝利に終わった。にも関わらず乃木軍はその攻撃法を変えず、第二回目の総攻撃をやった。当然、同じ結果がでた。死傷4千900人で、要塞は微動だにしない。
 「すでに鉄壁下に2万余人をうずめてみれば何とか攻撃法を考えそうなものである。」
 と、東京にいる参謀本部次長・長岡外史は、その日記で乃木と伊地知のコンビに対する憤りを書いている。戦争には錯誤誤算はつきもの。しかし、長岡外史らが乃木軍の頭を疑ったのは、この錯誤をすこしも錯誤であるとは思わず、従ってここから教訓を引き出して攻撃方法の転換を考えようとしなかったことだった。

 「乃木では無理だった」という評価も東京の大本営では出ていた。参謀長の伊地知幸介の無能についても、乃木以上にその評価が決定的になりつつあったが、しかしそういう人事を行ったのは東京にいる幹部たちである以上、責めることもできない。更迭案も一部で出ていたものの、しかし戦いの継続中に司令官と参謀長を変えることは、士気という点で不利であった。しかし、「兵を送れ」と際限もなく兵の補充を要求し、ただいたずらに人間を殺す作戦をやめようとしない乃木軍をそのままにしておくわけにもいかず、長岡外史は有坂成章陸軍技術審査部長の提案を受け、日本本土の主要海岸に備え付けてある28サンチ榴弾砲を送ることを決定した。しかし、あろうことかこの報告を受けた乃木軍司令部の変電は、「送ルニ及バズ」というものであった。この件について司馬遼太郎氏の原作の表現を借りると、「古今東西の戦史上、これほどおろかな、すくいがたいばかりに頑迷な作戦頭脳が存在しえたであろうか。」となる。

 この、乃木希典と伊地知幸介の無能説は、司馬氏がこの小説の中で執拗に訴え続けたもので、その後の乃木と伊地知のイメージを決定づけたといっても過言ではない。しかし、この説については賛否両論があり、特に軍事の専門家の中に司馬氏の説を否定する意見が少なくない。そのあたりについては、私は専門家ではないので判断の材料を持たないが、ただ、乃木はのちに軍神あつかいとなって英雄となってしまったため忘れられてしまっていたが、この時期の乃木と第三軍に対する国民の批判は大変なものだったようで、日本にいた乃木夫人のもとには責任を取って辞職すべし、腹を切れとの抗議の手紙が何千通も送りつけられていたそうである。

 旅順要塞の前にとなっていった兵士たちについて司馬氏はいう。
 「驚嘆すべきことは、乃木軍の最高幹部の無能よりも、命令のまま黙々と埋め草になってゆくこの明治という時代の無名日本人たちの温順さであった。『民は倚らしむべし』という徳川三百年の封建制によってつちかわれたお上への怖れと随順の美徳が、明治三十年代になっても兵士たちのあいだでなお失われていない。命令は絶対のものであった。かれらは、一つおぼえのようにくりかえされる同一目標への攻撃命令に黙々としたがい、巨大な殺人機械の前で団体ごと、束になって殺された。」

 さらに司馬氏はいう。
 「旅順攻撃は、維新後近代化をいそいだ日本人にとって、初めて『近代』というもののおそろしさに接した最初の体験であったかもしれない。要塞そのものが『近代』を象徴していた。それを知ることを、日本人は血であがなった。」

 戦争に誤算はつきもので、互いに誤算し合うが最終的には誤算の少ない方が勝つ。日本はこれほどの大誤算をしたのだから、本来負けるはずだった。しかし、そうならなかった歴史の不思議である。

坂の上の雲 第10話「旅順総攻撃」 その2

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by sakanoueno-kumo | 2011-12-08 00:46 | 坂の上の雲 | Trackback(3) | Comments(2)  

Tracked from ショコラの日記帳 at 2011-12-08 16:49
タイトル : 【坂の上の雲】第10回(第3部初回)視聴率と感...
「旅順総攻撃」第10回(第3部初回)の視聴率は、12.7%(関東地区)でした。下記の視聴率一覧表の通り、第1部、2部に比べると、初回の視聴率、段々、落ちています(^^;)第3部は、全部...... more
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タイトル : 【坂の上の雲】第10回(第3部初回)視聴率と感想「旅順総..
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タイトル : 戦いの始まり 〜坂の上の雲・旅順総攻撃〜
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Commented by ZODIAC12 at 2018-11-11 10:48 x
大学時代に原作小説を読み通しました。
その時に乃木希典、と言うより参謀長の伊地知幸介を作中で、怒りを込めて、執拗なまでに扱き下ろしていた事は印象に残っています。
以来ずっとそうだと思ってましたが、近年になってこの作品中での乃木・伊地知に対する描写や批判は的外れだという、いわば無能説を否定する見解がある事を知りました。

私は戦史マニアや軍事マニアではないので、それらの見解でよく分からない点もありましたけど。
ただきちんと論拠を伴って否定しているので、筋は通っていると思いました。
今となってはそれら否定論の方に理があるなと感じます。
Commented by sakanoueno-kumo at 2018-11-12 00:48
> ZODIAC12さん

司馬さんの見解に対する否定論があるのは知っていますし、わたしも、それらの見方を説く本も何冊か読みました。
でも、わたしは専門家ではないので、司馬さんの見解を読めばそう信じたくなりますし、否定論を読めば、これもまた、なるほどと思わされます。
史学というものは、通説があれば、必ず逆説が出てきます。
たしか、磯田道史氏だったと思いますが、「われわれ学者の仕事は、なんでもかんでも疑ってかかるところから始まる」と言っておられました。
なるほどなあと唸らされました。
わたしは素人なので、疑ってかかれるほどのスキルをもっていませんので、どちらかと言えば、なんでもかんでも信じてしまいます。
ただ、すべてを鵜呑みにしないように、右傾の意見を聞けば、必ず左傾の論旨にも耳を傾けるように心がけています。
わたしは、拙ブログのsakanoueno-kumoというハンドルネームからもおわかりのように、小説『坂の上の雲』のファンです。
ですが、そこに書かれていることが全て史実だとも思っていません。
ただ、それらの歴史に対する司馬さんの解釈が好きなだけです。
多くの司馬ファンは、たぶんわたしと同じでしょう。
でも、貴兄のようにそこが嫌いだという方々を否定するところではありません。
最初に申し上げたとおり、通説には必ず逆説がありますから。
どちらが正しいか、なんて結論を出せるほどの能力をもっていません。

ちなみに、私は今でも映画『二百三高地』を観ると必ず泣きます(笑)。
素人のわたしの歴史観は、ドラマチックであるかないか、その程度ですよ。

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