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坂の上の雲 第11話「二〇三高地」 その1

 旅順要塞への攻撃はなおも続いていた。東京の大本営と海軍は攻撃の主目標を二〇三高地に限定するよう再三要請するも、乃木希典を司令官とする第三軍(第一師団・東京、第九師団・金沢、第十一師団・善通寺から編成)は参謀長である伊地知幸介中将の指揮により旅順要塞正面突破に固執し、それを繰り返しては多大な損害を受けていた。作戦当初からの死傷者の数はすでに2万数千人という驚異的な数字に上っており、もはや戦争というより災害といえた。これを司馬遼太郎氏にいわせれば、「無能者が権力の座についていることの弊害が、古来これほど大きかったことはないであろう。」となる。

 乃木軍の無能さの例をあげると、たとえば乃木軍は要塞への総攻撃を毎月決まって26日に行った。ロシア軍はそのことに気付いており、常に26日を想定して部署を整え、満を持して待っていればよかった。わざわざ敵に準備をさせ、無用に兵を殺すだけのことで、それでも乃木軍は毎月26日に総攻撃を実行し、そのたび、甚大な被害を受けた。その理由を伊地知にいわせれば3つあるという。一つは火薬の準備であり、「導火索は一月保つので、前回の攻撃から一ヶ月目になる」という、科学性に乏しく、戦術配慮が皆無の理由がひとつ。二つ目は、「南山を攻撃して突破した日が、二十六日で縁起がいい」という。三つ目は、「26という数字は割り切れる。つまり要塞を割ることができる」と。乃木も横で大いにうなずいていたという。司馬氏はいう。
 「この程度の頭脳が、旅順の近代要塞を攻めているのである。兵も死ぬであろう。」

 伊地知はそのたびかさなる作戦の失敗を、自分の方針の失敗だとは思っておらず、「罪は大本営にある」と公言していた。伊地知は、作戦家としての能力に欠けていただけでなく、常に自分の失敗を他人のせいにするような、一種女性的な性格の持ち主であるようだった。そんな伊地知を乃木はかばった。乃木希典という人物は、自らに対しては厳格な精神家であったが、自分の部下に対しては大声で叱責するようなことはなく、この場合も伊地知を信じようとした。人の上に立つものの理想的な人格像ともいえるが、戦争を指揮するものとしての資質として、理想的とはいえなかった。司馬氏はいう。
 「ともあれ、旅順の日本軍は、『老朽変則の人物』とひそかにののしられている参謀長を作戦頭脳として悪戦苦闘のかぎりをつくしていた。一人の人間の頭脳と性格が、これほど長期にわたって災害をもたらしつづけるという例は、史上に類がない。」

 原作小説では、とにかく一貫して乃木希典と伊地知幸介の無能論を説く。特に伊地知に対する批判というのは凄まじく、司馬氏の“怒り”とも“嘆き”ともいえる罵倒の数々である。その批判は軍人としての能力を超えて、人格まで否定しているといっていい。司馬氏は伊地知を語る際に、軍人についてこうもいっている。
 「軍人という職業は、敵兵を殺すよりもむしろ自分の部下を殺すことが正当化されている職業で、その職業に長くいると、この点での良心がいよいよ麻痺し、人格上の欠陥者ができあがりやすい。」
 この旅順要塞攻略で失った兵の命は1万6千人を超えていた。司馬氏にいわせれば、これはもはや戦争ではなく災害であった、となる。その災害を起こした司令官と参謀長を罵倒するのも、当然かもしれなかった。しかし、ドラマではそこまで二人に批判的な描き方ではなかった。これは、できるだけ司馬氏の主観的な描写は避け、あくまで視聴者に判断を委ねる、といった製作者の意図からのものだろうか。

 司馬氏の有能無能論について原作から抜粋。
 「あたりまえのことをいうようだが、有能とか、あるいは無能とかということで人間の全人的な評価をきめるというのは、神をおそれぬしわざだろう。ことに人間が風景として存在するとき、無能でひとつの境地に達した人物のほうが、山や岩石やキャベツや陽ざしを溜める水たまりのように、いかにも造物主がこの地上のものをつくった意思にひたひたと適ったようなうつくしさをみせることが多い。
 日本の近代社会は、それ以前の農業社会から転化した。農の世界には有能無能のせちがらい価値規準はなく、ただ自然の摂理にさからわず、暗がりに起き、日暮れに憩い、真夏には日照りのなかを除草するという、きまじめさと精励さだけが美徳であった。
 しかし、人間の集団には、狩猟社会というものもある。百人なら百人というものが、獲物の偵察、射手、勢子といったぐあいにそれぞれの部署ではたらき、それぞれが全体の一目標のために機能化し、そうしてその組織をもっとも有効にうごかす者として指揮者があり、指揮者の参謀がいる。こういう社会では、人間の有能無能が問われた。
<中略>
有能無能は人間の全人的な価値評価の基準にならないにせよ、高級軍人のばあいは有能であることが絶対の条件であるべきであった。かれらはその作戦能力において国家と民族の安危を背負っており、現実の戦闘においては無能であるがためにその麾下の兵士たちをすさまじい惨禍へ追いこむことになるのである。」

 まさしく、有能無能で人間の価値ははかれないが、無能な指揮官の下で命を落としていく兵の身になってみれば、指揮官の無能は大罪であった。日本は旅順で滅びようとしていた。そこに、有能な指揮官が秩序を犯して日本を救うこととなる。

やはり1稿では書ききれません。『その2』に続きます。


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by sakanoueno-kumo | 2011-12-12 23:59 | 坂の上の雲 | Trackback(1) | Comments(2)  

Tracked from ショコラの日記帳 at 2011-12-17 09:39
タイトル : 『坂の上の雲』第11回視聴率と『行列~』の...
『行列のできる法律相談所』の新しい司会者、明石家さんまさんになるそうです。先日(12/11)の「行列~」の最後に発表されて、びっくりしました♪2012年1月15日放送の新春2時間SPからの...... more
Commented by ショコラ at 2011-12-17 09:38 x
>常に自分の失敗を他人のせいにするような、一種女性的な性格の持ち主であるようだった

他人のせいにするのが、女性的な性格とは心外です(^^;)
逆に、男性の方が見栄っ張りが多いので、他人のせいにする人が多いような気がします。
会社でも部下のせいにする上司、多いですし(汗)
Commented by sakanoueno-kumo at 2011-12-21 02:10
< ショコラさん。
レス遅くなってスミマセン(年末は何かと忙しくて・・・汗)。

きっと誰かにお叱りを受けるだろうと思ってました。
ただ、これ、司馬さんの原作の中でもそう表現しているんですよ。
で、私もあえて“女性的な性格”という言葉を使用しました。
司馬さんがこの小説を書いたの40年近く前のことで、おっしゃるように、今では男のほうが言い訳や文句が多く、往生際が悪いかもしれません(汗)。

よく天気予報などでも、ジメジメした長雨のことを“女性的な梅雨”といい、激しく短期集中方の雨のことを“男性型の梅雨”なんて表現したりしますが、あれも最近では逆かもしれませんね。

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