坂の上の雲 第12話「敵艦見ゆ」 その1 ~黒溝台会戦~
日本軍の兵力は12個師団相当しかない。一方のロシアは17個師団を持ち、さらに大動員することで28個師団まで増やそうとしていた。この極寒の中、ロシア軍の総帥クロパトキンは、第二軍司令官グリッペンベルグ大将に押し切られるかたちで、攻勢に出ようとしていた。だが、日本の満州軍総司令部は、「ロシア軍が攻撃に出るなど、そんなばかなことがあるか。」という態度で終始した。理由は、「この厳寒期に大兵力の運動はとてもできるものでじはない。」というものであった。この考えは、満州軍総参謀長・児玉源太郎の懐刀ともいうべき参謀・松川敏胤大佐から出たものであり、児玉もそう信じた。だが、かつてロシア軍がナポレオンを撃破したのは冬季であり、かれらの運動は冬季において得意であるという伝統と習性に、二人は気づいていなかった。
このとき日本軍の最左翼を受け持っていた秋山好古は、騎兵の本務である敵情捜索をさかんに行っており、ロシア軍の不穏な動きを察知していた。好古はそのことごとくを総司令部に再三報告していたが、松川敏胤は、また例によって騎兵の報告か、と、ほとんど一笑に付し、一度といえども顧慮を払わなかった。「ロシア軍が冬季に大作戦を起こさない」という、根拠皆無の固定観念にとらわれつづけていたのである。このときの松川、児玉の思考について、作者・司馬遼太郎氏はこう述べている。
「戦術家が、自由であるべき想像力を一個の固定観念でみずからしばりつけるということはもっとも警戒すべきことであったが、長期にわたった作戦指導の疲労からか、それとも情報軽視という日本陸軍のその後の遺伝的欠陥がこのころすでに芽ばえはじめていたのか、あとから考えても彼ら一団が共有したこの固定概念の存在は不思議である。」
さらには、こうも述べている。
「その理由のひとつは松川たちの疲労にもよるであろうが、ひとつには常勝軍のおごりが生じはじめたためであろう。かつてはかれらは強大なロシア軍に対し、勝利を得ないまでも大敗だけはすまいと小心に緊張しつづけたころは、針の落ちる音でも耳を澄ますところがあったが、連戦連勝をかさねたために傲りが生じ、心が粗大になり、自然、自分がつくりあげた「敵」についての概念に適わない情報には耳を傾けなくなっていたのである。日本軍の最大の危機はむしろこのときにあったであろう。」
「勝って兜の緒を締めよ」とはよくいったもので、その“常勝軍のおごり”が、このときより数十年後に、取り返しのつかない判断ミスを犯して無謀な戦争を引き起こし、日本本土を焼け野原にしてしまうのだが、それはこの物語よりずっと後年の話である。
明治38年(1905年)1月、ロシア第二軍司令官グリッペンベルグは約10万人の大軍で日本軍最左翼への総攻撃を決行した。その再左翼を受け持っていた秋山好古率いる秋山支隊は、わずか8000人の兵で約30kmの戦線を守っていた。総司令部もこの攻勢に初めて反応を示し、一個師団を救援に向かわせることにした。わずか一万数千の援軍である。ロシア軍の作戦は沈旦堡と黒溝台を撃砕して日本軍左翼に南下し、包囲作戦に出ようとするものであった。これが成功すれば、日本側は全軍が崩壊する。この時期、総司令部が握る総予備軍は弘前の第8師団だけだった。立見尚文中将率いる通称立見師団で、熊本の第6師団と並んで日本最強との呼び声高い師団である。この立見師団は戦略予備軍であり、満州における戦局の激しさの中で常に兵力不足に悩まされていた日本軍は、この戦略予備軍まで使わざるを得なかった。
秋山好古は敵の怒涛の攻撃に耐えていた。その防戦に最も力となったのは、各拠点に数挺ずつ配置した機関銃であった。好古は懸命に防戦した。もはや戦術も何もなく、逃げないという単純な意志だけが戦闘指揮の原理となっている。その頃、秋山支隊の援軍として派遣された第8師団がロシアの猛攻に立ち往生しており、このことを知った総司令部の狼狽は極みに達した。この頃になってようやく総司令部もロシア軍が左翼を突破し包囲攻勢をかけようとしているということに気づき、さらに第2師団、第3師団の派遣を決定した。
しかし、黒溝台に密集しているロシア軍は依然として活発であり、日本の諸隊がこれに接近すればそのつど猛烈な銃砲火で撃退された。この状況を打破したのは、立見師団の夜襲であった。師団の夜襲とは極めて難しいもので、通常行われないものだが、しかし、立見は夜襲の名人であった。立見師団は、おびただしい犠牲を払いながらも怯むことなく躍進し、黒溝台の奪還に成功した。このとき立見師団の受けた損害は死傷6248人(うち戦死1555人)というもので、一戦場で一師団が受けた損害としては、この時期までの世界戦史に類がないといわれる。それだけの犠牲を払いながら負けなかったのは、ロシア軍の退却によってである。
この会戦をロシア側の戦史では「沈旦堡の会戦」といい、日本側では「黒溝台の会戦」という。この会戦に参加した日本軍の兵力は5万3800人であり、死傷9324人、ロシア軍は兵力10万5100人、損害は1万1743人であった。ロシアにしてみれば最大の勝機を逸したというべきであり、九割の兵力を残しながら退却したのは奇妙というほかない。この奇妙さはクロパトキンの命令によるものであった。司馬氏はいう。
「この会戦は日本軍にとって決して勝利とはいえない。総司令部の作戦上の甘さと錯誤を、秋山好古や立見尚文の士卒が、死力をふるって戦うことによってようやく常態にもどすことができたというのが正確な表現であり、いわば防戦の成功であった。」と。
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by sakanoueno-kumo | 2011-12-21 02:00 | 坂の上の雲 | Trackback | Comments(2)