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坂の上の雲 第12話「敵艦見ゆ」 その2 ~奉天会戦~

 旅順を陥落させた乃木希典率いる第3軍は、休むまもなく北進しなければならない。満州軍総参謀長・児玉源太郎は乃木軍を必要としていた。児玉は全軍をあげての奉天会戦を計画していたのである。そもそも児玉はこの戦争で、ロシアを相手に完全勝利などできるとは思っておらず、普通にやって四分六分、よくやって五分五分と見ていた。それを何とか作戦で六分四分にまで持ち込み、そこで第三者の力を借りて早期講和をすすめ、外交で終戦にこぎつける、というのがこの戦争の主題で、この主題を外して日本の勝利はないと思っていた。つまり、最初から“KO勝ち”など望んでおらず、いかにして“判定勝ち”に持ち込むか、であった。そのため、これまでもギリギリのところでわずかな勝ち星を積み重ねてきたが、開戦から1年あまりが過ぎ、日本の兵力・財力ともに底が見え始めてきた。それだけに、児玉はこの奉天会戦に賭けていた。この奉天会戦に勝って、その勝利を判定材料に戦いを外交の場に移したかったのである。

 明治38年(1905年)1月11日、旅順要塞司令官のステッセルが旅順を去った。13日、乃木軍は旅順で入城式を行い、14日には水師営南方の丘で招魂祭を行った。そして15日、乃木軍の人事が発表され、乃木以外のほとんどの参謀が交替させられた。旅順攻撃の作戦の責任を問われたものであった。26日、乃木ら第三軍司令部は満州軍総司令部のある煙台に到着した。乃木軍は遼陽に司令部を置いたが、部隊の多くは徒歩行軍のため、まだ到着していない。そのころ、黒溝台へのロシア軍の進出が始まろうとしていた時である。残念ながら、乃木軍は黒溝台の会戦には間に合わなかったが、この後10日ばかりで乃木軍は遼陽に集結できた。満州が凍っていたことが幸いした。川も凍っていて橋も船も不要で、氷の上を通っていけたのである。

 クロパトキン率いる32万人のロシア軍は奉天にいる。対する日本軍は総勢25万人。この両者が戦えば、今日までの世界史上最大の会戦であった1813年のライプチヒの戦いを上回る戦いとなる。2月20日、煙台の総司令部に各軍司令官が招集された。第1軍司令官、黒木為禎。第2軍司令官、奥保鞏。第3軍司令官、乃木希典。第4軍司令官、野津道貫。この会議で作戦が決定され、乃木軍の役割は日本軍の最左翼で敵をできるだけ引きつけおくというものだった。乃木軍のさらに左翼を守るために秋山好古の騎兵隊を配置する。日本軍の最右翼には新設「鴨緑江軍」が配置される予定である。日本軍の攻撃により、敵が文字通り、右往左往しているすきに、奥軍と野津軍が敵の中央突破をやるという、大胆な計画だった。

 奉天のロシア軍総司令部においても一大攻勢が計画されていた。ロシア軍総参謀長・サハロフエウエルト作戦部長は黒溝台の戦いでは、もう一押しで日本軍を大崩壊させていたと残念がり、そのサハロフから今度は正統的な作戦計画が示されたが、クロパトキンはもう一度沈旦堡を押そうといいだした。ところがまたもや、クロパトキンは気が変わった。乃木軍10万人(実際は3万4千人)の動向が気になり始めたのである。そこに、北京の武官から乃木軍がウラジオストックを衝くという情報を得た。これによって、クロパトキンは乃木軍が日本軍のはるか右の方角へ展開し、左回りでクロパトキンの背後に出てくると思った。これは全くの見当違いであった。この情報は新設された「鴨緑江軍」の機能についての情報と混同してしまったものだった。戦後にロシア領の一部でも得たいとの政略でできた「鴨緑江軍」が、思わぬ効果を発揮したといえる。

 クロパトキンは日本軍の力を過大評価する傾向にあった。特に、旅順から北進してくる乃木軍と神出鬼没の秋山好古の騎兵旅団を必要以上に怖れ、その備えのためにミシチェンコ騎兵軍団をはるか後方の松花江付近にへ動かしてしまい、そのため、ロシア最強のミシチェンコ騎兵軍団は奉天会戦に参加出来なかったのである。クロパトキンは作戦に関して迷いに迷った。彼はためらい、軍司令官に作戦延期の手紙を書いている。この数日の遅れが致命傷となった。2月23日、鴨緑江軍がロシア軍左翼の陣地を攻撃することで、史上最大の会戦である奉天会戦は事実上始まった。これ以降、戦いは常に日本軍主導によってすすみ、ロシア軍は常に受け身となった。クロパトキンは常に敵によって動こうとし、敵の出方をいつも見ていた。あたまから防御心理ができており、これは恐怖が思考の軸となっていたと考えられる。

 3月1日、日本軍の正面攻撃が始まった。クロパトキンは日本軍を必要以上に恐れ、陽動作戦にもまんまとひっかかる。そして3月7日、突如として、またも余力を残して退却を始めたのである。あと一押しで日本軍は壊滅といった場面があったにもかかわらず、である。ロシア軍は兵力、火力、兵員の質、どれをとっても日本には負けていなかった。戦況についての不利な要素は少しも発生していないにもかかわらず、クロパトキンは鉄嶺まで総退却するとした。要するに奉天をすてて逃げるということである。

 奉天会戦の勝敗は10日夜に決定した。ロシア軍にとってはロシア史上類を見ない敗戦を喫し、この夜の戦闘だけでロシア兵の投降者は2万人を超えた。この会戦における日本軍の死傷は大きく5万人以上にのぼったが、ロシア軍の損害は退却時にはなはだしく、捕虜3万余を含めて損害は16~7万人にものぼった。満州軍総司令官・大山巌にして「日露戦争の関ヶ原」まで言わしめたこの奉天会戦で、クロパトキンの日本軍に対する過大評価と恐れが、ロシアにとって勝つべき戦いを敗北に導いたのである。世界中の新聞が日本の勝利をいっせいに伝え、国際世論が日本に軍配を上げた。奉天会戦のあと、ロシアの陸軍大臣サハロフはクロパトキンを解任し、第1軍司令官の位置に降ろした。かわりに、第1軍司令官のリネウィッチを総司令官に昇格させた。この人事は、ロシア軍も敗北を認めたということであった。

 この奉天会戦におけるロシア軍の敗北ついて、司馬遼太郎氏はいう。
 「ロシア軍の敗因は、ただ一人の人間に起因している。クロパトキンの個性と能力である。こういう現象は、古今にまれといっていい。国家であれ、大軍団であれ、また他の集団であれ、それらが大躓きに躓くときは、その遠因近因ともに複雑で、一人や二人の高級責任者の能力や失策に帰納されてしまうような単純なものではなく、無数の原因の足し算なり掛け算からその結果がうまれている。が、奉天会戦にかぎってはただひとりのクロパトキンに理由が求められる。その意味ではこの満州の曠野で戦われた世界戦史上最大の会戦は、古今の珍例といってよかった。」

 一方、日本では新聞が連戦連勝をたたえ、国民が奉天の大勝に酔い、国力がすでに尽きようとしていることを忘れ、「もっともっと!」といった空気が広がろうとしていた。それがよくわかっている児玉源太郎は急遽日本に引き返し、講和を急ぐべきだと日本政府に訴えた。しかし、その講和工作が本格的に動き始めたとき、その実務を担っていた駐米公使の高平小五郎が重大なミスを犯した。早期に講和をという本国からの訓令を誤解し、日本はロシアとの海戦を避けたい、海戦では負けると勝手に憶測してしまった。そして、このことを米国のルーズヴェルト大統領にも言ってしまったのである。さらには、それがロシア側にも知れることとなり、このことがロシアをして講和に向かうことを遠ざけてしまった。こうして、日本海海戦の舞台が整えられていったのである。

 司馬氏はいう。
 「戦争というものが劇的構成をもっていた時代における最後の、そして最大の例としてこの戦争は歴史的位置を占めるが、そのなかでも最も大きな劇的展開へ事態は向かいつつあるようであった。」

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by sakanoueno-kumo | 2011-12-22 13:58 | 坂の上の雲 | Trackback | Comments(0)  

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