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坂の上の雲 第12話「敵艦見ゆ」 その3 ~天気晴朗ナレドモ浪高シ~

 バルチック艦隊は明治38年(1905年)1月9日にマダガスカル島ノシベに入港して以来、2ヵ月ほど放置されることになる。本国からの指令が来ないので、身動きがとれないでいた。バルチック艦隊には、旅順の陥落が伝わっている。この艦隊のもともとの戦略的価値は旅順艦隊と合流して日本艦隊を撃滅するということにあり、その旅順艦隊が全滅して原理の基盤が崩れてしまった以上、本国へ帰るべきであったかもしれなかった。だが、本国からの指令が来ない。バルチック艦隊司令長官・ロジェストウェンスキーは引き返したかった。2ヶ月も猛暑と湿気の不健康な地に留まり、艦員の誰もがこれからの行き先すらわからず、次第に士気も衰えていった。

 結局、ロシア政府はもう一艦隊を増派することにした。ネボガトフ少将率いる第三艦隊である(第一艦隊は旅順艦隊、第二艦隊はバルチック艦隊)。ただ、この艦隊は老朽艦をかき集めて構成されたもので、ロジェストウェンスキーにしてみれば、むしろ足手まといになる懸念があった。「ネボガトフ艦隊が待つに価いする艦隊なのかどうか」は、世界中の専門家は否定的であった。とはいえ、ロジェストウェンスキーが自ら第三艦隊との合流を望んだわけではなく、彼にそれをやらせているのは皇帝ニコライ二世とその皇后アレクサンドラであった。さらにいえば、皇帝に絶対的専決権をもたせてしまっているロシアの体制そのものがそれをやらせているわけであり、もしこの国の国民と将兵がこの一大愚行から抜け出そうとするなら、革命をおこすしかなかった。

 マダガスカル島にいた2ヵ月間のバルチック艦隊の心境は、まさしく秋山真之が新聞記者の取材に対して応じた答えのとおりであったかもしれない。
 「行こかウラジオ、帰ろかロシア、ここが思案のインド洋」

 その頃、連合艦隊はバルチック艦隊迎撃に向かってすべての機能が作動しつつあった。2月6日、連合艦隊司令長官・東郷平八郎は真之らを率い、列車で東京を去った。2月14日、東郷、真之らが座乗する戦艦「三笠」は呉軍港を出港、2月20日には佐世保港を出港した。目指すは、南朝鮮の鎮海湾である。ここをバルチック艦隊が現れるまでの隠れ場としたのである。真之は、バルチック艦隊は見晴らしの利きやすい5月に来てほしいと願っていた(そして、その願いは実現するのだが)。それまでの3ヶ月間、ここでひたすら射撃訓練をおこなった。

 バルチック艦隊は、3月16日になってようやくマダガスカルのノシベを出航、インド洋を東へ進んだ。20日間のインド洋航海ののち、マラッカ海峡を通過するコースをとった。マレー半島の先端にはシンガポールがある。このコースの選択は進路の秘匿といった戦略的配慮は皆無であり、英国人に艦隊の全てをさらけ出しての航海をとなった。一方のネボガトフ艦隊は2月15日にリバウを出港、喜望峰沖を通らずに地中海スエズ運河経由でやってきた。中型艦のみであるためスエズ運河を通行出来たのである。5月9日、ロジェストウェンスキー艦隊とネボガトフ艦隊はカムラン湾の少し北方のヴァン・フォン湾沖で合流。これによりロシア艦隊は、総数50隻16万余トンという巨大艦隊となった。勝敗を決する戦艦は日本側が「三笠」以下4隻しかないのに対して、ロシアは8隻であるなど、総じて数の上ではロシア側が優位にたっていた。5月14日、その巨大艦隊が最後の停泊地であったのヴァン・フォン湾を出港した。

 この後の進路ほど日本側を悩ましたものはなかった。バルチック艦隊がどこを通るのか。日本側にとっては対馬海峡ルートを通ってくれるのがもっともよいし、定石ではそうであった。だが太平洋に出て迂回するかたちでウラジオストックに向かうことも考えられた。日本に艦隊が2セットあれば両方に手当てできたであろうが、連合艦隊1セットしかない。秋山真之も当初は対馬海峡を通るとの公算をもっていたが、直前になって迷いが生じた。この悩みを増幅させたのは、いつまでたってもバルチック艦隊が現われないことであった。知らぬ間に太平洋迂回コースをたどりつつあるのではないか・・・と。それはまさに、巌流島の決闘における佐々木小次郎の心理状態であったかもしれない。そんな中、東郷平八郎だけは言い切った。「対馬海峡を通る」と。司馬遼太郎氏はいう。
 「東郷が、世界の戦史に不動の位置を占めるにいたるのはこの一言によってであるかもしれない。」

 連合艦隊は三つの艦隊に区分され、主力の第一艦隊は東郷が指揮し、第二艦隊は上村彦之丞、第三艦隊は片岡七郎が指揮をしていた。そのうちの一隻「信濃丸」が5月27日午前2時45分、バルチック艦隊のものと思われる燈火を発見した。はっきり確認した後、午前4時45分「敵艦見ゆ」と無線連絡した。実はこの時、信濃丸はバルチック艦隊のど真ん中に迷い込んでいたのである。しかし、濃霧のためかバルチック艦隊から発見されることはなかった。信濃丸の一番近くにいたのが巡洋艦「和泉」で、この和泉が敵艦隊の位置を陣形、進路などを綿密に報告した。和泉はバルチック艦隊に発見されたが、攻撃されることもなく、無線妨害もされなかった。当時世界一の無線を積んでいた仮装巡洋艦ウラルが無線妨害をしようかとロジェストウェンスキーに伺ったところ、「無線を妨害するなかれ」という答えだった。なんとも不可解な命令だった。

 信濃丸が発した「敵艦見ゆ」の無電は午前5時5分、旗艦「三笠」に届いた。このとき甲板で体操をしていてこの知らせを聞いた秋山真之は、ドラマにもあったように、動作が急に変化して片足で立ち、両手を阿波踊りのように振って「シメタ、シメタ」と踊りだしたというのである。「秋山さんは雀踊りしておられた」と、このとき三笠の砲術長で、後年、海軍大臣にまでなる安保清種が、のちのちまで人に語った。

 東郷艦隊は決戦に向かうにあたっての決意を大本営に伝えなければならない。電文は秋山真之が起草したものではなく、飯田久恒少佐や清河純一大尉らが起草したもので、「敵艦見ユトノ警報ニ接シ、聯合艦隊ハ直ニ出動、之ヲ撃滅セントス」とあった。これを読んだ真之は「よろしい」とうなずき、もう一筆くわえた。有名な、「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」である。

 後年、飯田久恒は真之の回顧談だ出るたびに、「あの一句を挟んだ一点だけでも、われわれは秋山さんの頭脳に遠く及ばない」と語った。たしかにこれによって文章が完璧になるというだけでなく、単なる作戦用の文章が文学になってしまった観があった。この「天気晴朗ナレドモ浪高シ」は、戦後、一部の者に批判された。「美文すぎる」というのである。これについて海軍大臣の山本権兵衛も、「秋山の美文はよろしからず、公報の文章の眼目は、実情をありのままに叙述するにあり、美文はややもすれば事実を粉飾して真相を逸し、後世を惑わすことがある」といった。たしかに山本のいうとおりであった。これより数十年後の太平洋戦争の際には、現実認識を無視して膨張された国士きどりの美文(?)が軍隊のなかに蔓延し、それによって真相を隠蔽したりもした。

 しかし、この場合、真之は美文を作るためにこの一節を付け加えたわけではなかった。真之のこの一節は、「本日天気晴朗のため、我が連合艦隊は敵艦隊撃滅に向け出撃可能。なれども浪高く旧式小型艦艇及を水雷艇は出撃不可の為、主力艦のみで出撃する」という意味を、漢字を含めて13文字、ひらがなのみでもわずか20文字という驚異的な短さで説明しているため、短い文章で多くのことを的確に伝えた名文として後年まで高く評価された(モールス信号による電信では、わずかな途切れでも全く意味の異なる文章になるため、とにかく文章は短ければ短いほど良いとされている)。また、Z旗の信号文「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ」も、真之の作だといわれている。

 「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」
 世界中が注目した日本海海戦の幕が切って落とされた。

坂の上の雲 第12話「敵艦見ゆ」 その1 ~黒溝台会戦~
坂の上の雲 第12話「敵艦見ゆ」 その2 ~奉天会戦~


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by sakanoueno-kumo | 2011-12-23 17:14 | 坂の上の雲 | Trackback(2) | Comments(0)  

Tracked from 早乙女乱子とSPIRIT.. at 2011-12-24 21:48
タイトル : 戦局の行方 〜坂の上の雲・敵艦見ゆ〜
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Tracked from 早乙女乱子とSPIRIT.. at 2011-12-26 22:26
タイトル : 明治のオプティミズム 〜坂の上の雲・日本海海戦〜
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