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坂の上の雲 第13話「日本海海戦」 その1

 玄界灘に沖ノ島という孤島がある。この沖ノ島付近が決戦場となることを日露両軍は予測した。沖ノ島の西方というのが、日本海軍連合艦隊の司令部が算出した会敵地点だった。日本軍は旗艦「三笠」を先頭とした単縦陣であった。敵のバルチック艦隊は二列縦陣でやってきている。午後1時39分、旗艦「三笠」がバルチック艦隊を発見した。視界がよくなかったため、発見時にはすでに距離は近くなっていた。バルチック艦隊が日本軍の前にその全容を現したのが、午後1時45分ごろ。距離はざっと1万2千メートル。戦闘は7千メートルに入ってからでないと砲火の効果があがらないという東郷の方針は幕僚たちの覚悟となっている。

 秋山真之は信号文を発した。
「皇国の興廃、此の一戦に在り。各員一層奮励努力せよ」
 この信号文がすぐさま肉声にかわり、伝声管を通して各艦隊の全乗組員に伝わった。この海戦に負ければ日本は滅びるのだと解釈し、わけもなく涙を流す者もいた。連合艦隊司令長官・東郷平八郎は、戦闘の合図が出てもなお、旗艦「三笠」の艦橋に立ったまま司令塔に入ろうとしない。仕方なく真之は加藤友三郎と共に、東郷の側に付き添うことにした。

 バルチック艦隊は北進、日本艦隊は南下していた。双方の距離が約8千メートルになったとき、東郷は世界の海戦戦術の常識を打ち破った異様な陣形を指示した。敵前でUターンをしたのである。敵の射程内に入っているのに、敵に横腹をみせ左転するという、危険極まりない陣形だった。有名な敵前回頭である。敵艦隊の前で横一列になって、敵の頭を押さえようとしたのである。真之が考案した「丁字戦法」であった。敵艦退が猛烈に撃ってきたが、日本艦隊は回頭運動を行うのみで応射しない。この運動が完了するまでの15分間は一方的に敵の集中砲火を浴びた。だが、致命傷ではなかった。

 旗艦「三笠」の旋回運動が終わったとき、バルチック艦隊は右舷の海に広がっていた。距離はわずかに6千400メートル。右舷の大小の砲がいっせいに火を吐いた。目標は敵の旗艦「スワロフ」である。敵の将船を破り、全力をもって敵の分力を撃つ。距離はほどなく5千メートル台になった。兵員の姿がお互いに見える距離である。5千メートル以内に近づくと、日本軍の命中率は更に良くなった。東郷は敵に打撃を与えながら、艦隊の進路を変えた。常に敵の進路を押さえるためである。ロジェストウェンスキーの旗艦「スワロフ」は集中攻撃を浴び、炎上している。東郷はかねて、「海戦というものは敵にあたえている被害がわからない。味方の被害ばかりわかるからいつも自分のほうが負けているような感じをうける。敵は味方以上に辛がっているのだ」というかれの経験からきた教訓を兵員にいたるまで徹底させていたから、この戦闘中、兵員たちのたれもがこの言葉を思い出しては自分の気を引き締めていた。
 司馬氏はいう。
 「古今東西の将師で東郷ほどこの修羅場のなかでくそ落ち着きに落ち着いていた男もなかったであろう」

 この日本海海戦は明治38年(1905年)5月27日から28日まで2日間続いたが、秋山真之が終生、最初の三十分間で大局が決まったと語ったそうである。さらに真之は、こうも語っている。
 「ペリー来航後五十余年、国費を海軍建設に投じ、営々として兵を養ってきたのはこの三十分間のためにあった」と。

 ロシアの戦艦「オスラービア」が沈み、旗艦「スワロフ」も自由を失った。そのなかでロジェストウェンスキー自身も傷つき、戦線の離脱をよぎなくされる。バルチック艦隊の一部はなすすべもなく、連合艦隊を突破して一気にウラジオストックへ逃げ込もうとしたが、これも発見されてしまう。負傷したロジェストウェンスキーは駆逐艦「ベドーウィ」に移ったものの、結局、夜襲とその翌日にかけ、ロジェストウェンスキーとその幕僚たちがすべて捕虜となった。海戦史上、類のないことであった。この前に、バルチック艦隊の指揮権はネボガトフに移されていたが、そのネボガトフも数多くの日本の艦隊に包囲されてやむなく降伏。5月29日未明、ロシア側で戦っていた最後の装甲巡洋艦ドンスコイが自沈。770人余りが捕虜となり、日本海海戦は終わった。ロシア艦隊の主力艦はすべて撃沈、自沈、捕獲され、バルチック艦隊は消滅した。日本海軍の被害はわずかに水雷艇三隻、信じがたいほどの完璧な勝利であった。人類が戦争というものを体験して以来、この戦いほど完璧な勝利を完璧なかたちで生みあげたものはなく、その後にもなかった。

 日本海海戦の勝敗は、各艦の性能や兵員の能力で決まったのではなかった。日本側の頭脳考え方が敵を圧倒した勝利といえた。
 一つ目は、南朝鮮の鎮海湾でバルチック艦隊の到来を待っていたとき、東郷は射撃訓練を徹底的に行ったことである。これは東郷自身の苦い経験からきたものだった。砲弾は容易にあたるものじゃない、準備と鍛錬が必要であるということを、東郷は知っていた。
 二つ目は、東郷とその部下が開発した射撃指揮法であった。砲火指揮は艦橋で行い、それに基づき、各砲台は統一した射距離で撃つのである。多くの戦艦が一斉に同じ角度で射撃するといった工夫であった。
 三つ目は、敵との距離に応じて、東郷が弾の種類を変えたことであった。遠距離のときには、炸裂して兵員を殺傷する砲弾を使い、距離が三千メートル以下になると、艦隊の装甲部を貫き、大穴をあける砲弾を使った。さらには、敵前での艦隊運動の見事さ。また、東郷が自らの艦隊を風上へ風上へと持っていったことも命中率のアップに役立った。「天佑の連続だった」と、戦後、秋山真之は語ったが、その「天佑」の裏付けには、考えぬかれた知恵とぬかりない準備が存在した。司馬遼太郎氏はいう。
 「弱者の側に立った日本側が強者に勝つために、弱者の特権である考えぬくことを行い、さらに、その考えを思いつきにせず、それをもって全艦隊を機能化した、ということである。」

 日本海海戦の惨敗によってロシアは戦争を継続する意志を失い、米国のセオドア・ルーズベルト大統領の仲介で講和が進められていく。この仲介でアメリカは国際的な外交関係に初めて登場した。8月10日より日露両国は正式交渉に入り、9月5日、アメリカのポーツマスで講和条約は調印された。

 連合艦隊が解散したのは12月20日、その解散式において、東郷平八郎は「連合艦隊解散ノ辞」を読んだ。この草稿もまた、真之が起草したものとされている。長文であるため一部抜粋してあげると、
 「百発百中の一砲能(よ)く百発一中の敵砲百門に対抗し得るを覚(さと)らば我等軍人は主として武力を形而上に求めざるべからず。」
 「惟(おも)ふに武人の一生は連綿不断の戦争にして時の平戦に依り其責務に軽重あるの理無し。事有らば武力を発揮し、事無かれば之を修養し、終始一貫其本分を尽さんのみ。過去一年有余半彼の波濤と戦い、寒暑に抗し、屡(しばしば)頑敵と対して生死の間に出入せし事、固(もと)より容易の業ならざりし、観ずれば是亦(これまた)長期の一大演習にして之に参加し幾多啓発するを得たる武人の幸福比するに物無く豈(あに)之を征戦の労苦とするに足らんや。」

 以下、東西の戦史の例をひき、最後は以下の一句で結んでいる。
 「神明は唯平素の鍛練に力(つと)め、戦はずして既に勝てる者に勝利の栄冠を授くると同時に一勝に満足して治平に安ずる者より直に之を奪ふ。
 古人曰く勝て兜の緒を締めよ、と。」


 この文章はさまざまな形式で各国語に翻訳されたが、とくに米国大統領のセオドア・ルーズベルトはこれに感動し、全文英訳させて、米国海軍に頒布したという。これにより名文家・文章家として知られるところとなった真之は、のちに「秋山文学」と高く評価されるようになる。

 こうして、約1年半続いた日露戦争は終止符を打った。開戦当初、諸外国の誰もがロシアの勝利を予想した戦争に、日本はかろうじて勝利した。ロシアが自ら敗けたといった方が正しいかもしれない。ここで、シリーズ第1部5話のエンディングのナレーションが思い出される。
「やがて日本は日露戦争という途方もない大仕事に、無我夢中で首を突っ込んでいく。その対決にかろうじて勝った。その勝った収穫を、後世の日本人は食い散らかしたことになる。」

「古人曰く勝て兜の緒を締めよ」
という真之の訓示は残念ながら後世に伝わらず、“勝利のおごり”によって、やがて無謀な戦争に突き進んでいったことは、歴史の知るところである。



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by sakanoueno-kumo | 2011-12-27 03:03 | 坂の上の雲 | Trackback | Comments(0)  

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