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映画『プリンセス・トヨトミ 』鑑賞記 その2 ~豊臣家の不死鳥伝説~

昨日の続きです。
途絶えたと思われていた豊臣家の血筋が実は脈々と生き続けていたというのが、映画『プリンセス・トヨトミ』での設定ですが、この種の伝説というのはこの映画に限ったことではなく数多く残っています。
慶長20年(1615年)5月の大坂夏の陣の際に、豊臣秀吉の継嗣・豊臣秀頼は生母の淀殿と共に陥落する大坂城内の山里曲輪隅櫓で自刃して果てたというのはよく知られていますが、その秀頼が側室との間にもうけた嫡男・豊臣国松も、乳母と共に城を落ちるも徳川方の捜索により捕らえられ、市中引き回しのあと京の六条河原で田中六郎左衛門長宗我部盛親と共に斬首されました。
国松の年齢は不詳ですが、秀頼が文禄2年(1593年)生まれの23歳だったことから考えれば、国松は大きくとも7~8歳までだったことでしょう。
それが戦国の世のならいとはいえ、哀れな最後を遂げた幼い国松に人々の同情が集まったでしょうし、そんな酷い仕打ちをした徳川新政権が当時の庶民の反感を買ったであろうことは想像に難しくありません。

そんな背景から生まれたのか、国松の生存説が大分県日出町に残っています。
その説によれば、側近に護られた国松は薩摩国に落ち延びて島津氏に匿われたのち、豊後国日出藩に身を寄せていたとされます。
当時の日出藩主・木下延俊は、豊臣秀吉の正室・高台院の甥でした。
延俊は国松を城内で匿い、頃合いを見計らって自身の四男・木下延由(延次)として幕府に届け出たとも伝えられます。
その根拠として、延由の位牌に国松という文字が刻まれているというのですが、いかがなものでしょう。
実際の延由は、のちに5千石の旗本となっています。

他の説としては、天草四郎が国松だったという伝承もあります。
「島原の乱」は、豊臣家が起こした最後の反乱だったという面白い仮設ですが、この説についていえば、どう考えても年齢が合わないので、邪説と考えていいでしょう。
その天草四郎にもまた生存説がありますから、キリがありません(笑)。
それだけ、国松に生きていてほしいと願う当時の人々の思いから生まれた伝承だったのかもしれません。

e0158128_10592658.jpg国松の父である秀頼の生存説も数多くあります。
大坂城落城の際、秀頼たちが絶命する瞬間を目撃した者はおらず、死体も発見されなかったことから、当時から様々な生存説が囁かれてきました。
有名なものとしては、秀頼は肥後熊本藩主加藤家、もしくは大叔父の織田長益(有楽斎)の用意した舟の船倉に潜んで徳川方の追及をかわし、真田信繁(幸村)と共に薩摩国谷山に逃れたという説。
しかし、谷山では大酒を呑んでは暴れるため、領民には嫌われていたとか。
のちに秀頼が生存していることを幕府に訴え出た者がいたそうですが、「秀頼はもはや死んだも同然」ということで、不問に付されたと伝えられます。
また、秀頼が地元の女性との間に谷村与三郎という男子をもうけたとか、真田信繁(幸村)も鹿児島県頴娃町に隠れ住んだなどともいわれています。
現在、鹿児島市のJR指宿枕崎線谷山駅の近くに、秀頼のものと伝えられる墓碑があるそうです。
他の説としては、上述した国松の生存説と同様、日出藩主・木下延俊の庇護を受け、宗連と号して45歳まで生きたという異説も残っています。

e0158128_110087.jpgその秀頼の生母・淀殿にも生存説が存在します。
大阪夏の陣に徳川方として従軍していた上野総社藩主・秋元長朝が、大坂城落城の前後に豊臣方の高い身分と思われる女性から助けを求められ、これを保護したそうです。
長朝はその女性の気品と美貌から淀殿と見抜き、秘かに居城である総社城に連れ帰りました。
長朝が徳川家に無断で淀殿を連れ帰ったのは、美女とうたわれた淀殿を自らのにしようと考えたためでした。
しかし、気位が高い淀殿は長朝の邪恋を受け入れようとしません。
結局、淀殿は最後は自ら利根川へ入水自殺を遂げたとも、業を煮やした長朝に惨殺されたともいわれています。
現在、前橋市の元景寺には淀殿のものといわれる墓碑があり、淀殿が用いたという打掛駕籠の引き戸なども保存されているそうです。

とまあ、そんな具合で豊臣家にまつわる不死鳥伝説は数多く存在するのですが、いずれも根拠に乏しく伝承の域をでません。
秀頼と淀殿の生存説は、おそらくどれも事実無根と考えて無理はないでしょう。
唯一信憑性があるとすれば、国松の生存説ですね。
おそらく当時、国松の顔を見知る者などほとんどいなかったと思いますし、豊臣方の残党が替え玉の子供を徳川方に捕らえさせた・・・あるいは、国松を取り逃がした徳川方が、その事実を隠蔽するため、替え玉を処刑して事の終結をはかった・・・などなど、どれも考えられなくもない話です。
しかし、国松を匿うという行為は徳川家に背くということで、そこまでのリスクを背負ってまで国松を匿う義理が、秀頼と淀殿の落命後にあったかといえば、甚だ疑問ではありますけどね。
いずれにせよ、これだけ多くの不死鳥伝説が存在することからみるに、当時の庶民感情の中に、徳川新政権への反感と、豊臣政権の復活を望む声が、少なからず存在していたことの表れだと思います。
国松の生存説は、そんな人々の希望だったのかもしれません。
そう考えれば、映画『プリンセス・トヨトミ 』の中で400年豊臣家の血筋を守り続けてきた「大阪国」の国民たちの思いは、あながち的外れではないのかもしれませんね。
ひょっとしたら、私たちの知らないところで「大阪国」は存在するかもしれませんよ(笑)。

映画『プリンセス・トヨトミ 』鑑賞記 その1 ~荒唐無稽とはいえない「大阪国」~


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by sakanoueno-kumo | 2012-05-18 17:00 | 映画・小説・漫画 | Trackback | Comments(0)  

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