平清盛 第28話「友の子、友の妻」 その1
「同一行動をとると目立つ!ここは三人が別々に東国へ向かい、再挙を目指そう!」
というものだった。義平と朝長はこの義朝の提案に同意し、三人はそれぞれ別々に東へ進んだと伝えられる。
そのうち次男の朝長は合戦で深手を負っていたため、たちまち単独行動がとれなくなり、やむなく朝長は義朝の前に姿を表して保護を求める。しかし、剛毅で知られる義朝はその朝長の言動を軟弱と決め付け散々に罵倒し、なおも朝長が保護を求めるや、義朝はにわかに抜刀して朝長を刺殺したと伝えられる。なんとも哀れな話だ。また、別の説では、深手を負った朝長を義朝は同行させようとしたが、朝長は傷の悪化を理由にそれを拒否し、
「どうか父上の手で私をお討ちになり、後の憂いのないようにしてください」
と頼み込み、父の手によって殺害してもらったという。ドラマではこちらの説を採用していた。前の説は、義朝の剛毅さを強調するための伝説と見たほうがよさそうで、ドラマで描かれていた後の説のほうが人間らしく真実味がある。だが、いずれの説から考えても、朝長が父の手にかかって絶命したのは事実のようである。
息子を手にかけてまで再挙を目指した義朝は、乳兄弟で側近の鎌田正清と共に尾張国野間の長田忠致の屋敷を訪ねた。忠致は正清の舅という間柄で、その縁を頼ってのことだった。しかし、事前に平氏方に唆されていたのか、忠致は息子の長田景致と図って義朝、正清の殺害を計画。『平治物語』によれば、義朝は入浴中に襲撃されて殺害されたという。正清も酒を飲まされて斬り殺された。京を離れてわずか3日後のことだった。尾張地区の伝承によれば、義朝は入浴中に襲撃を受けた際、最後に、
「ここに一ふりの太刀ありせばかかる遅れはとらぬものを」と無念を叫んだとされる。また『愚管抄』では、忠致・景致父子の陰謀を察知した義朝が正清に自らの首を打つよう命じ、義朝を斬首したのちに正清は自害したとされる。義朝と正清が刺し違えて果てたというドラマでの設定は、『愚管抄』の説からアレンジしたものだろう。ドラマの義朝らしいみごとな最期だったと思う。享年38歳。忠致によって京にもたらされた義朝の首級は、年が明けた正月9日、東の獄舎の門上の木にかけて晒されたという。
ちなみに、このときから25年後の文治元年(1185年)、「壇ノ浦の戦い」で平家を滅ぼした源頼朝は忠致を捕らえ、父・義朝の墓前で処刑した。鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』では、処刑の方法は「土磔」にしてなぶり殺しという残忍な方法だったと伝えている。
父・義朝の横死を伝え聞いた長男・源義平は、平氏方にリベンジするべく危険を承知で京へ舞い戻った。しかし、ほどなく平氏方の難波経房の手で捕縛され、父の横死から約半月後の1月19日、六条河原にて斬首される。処刑の際、介錯人の経房をにらみ、「雷となって汝を蹴殺さん」と云い残して死んだと伝えられる。それから7年後の仁安2年(1167年)、清盛一行が摂津国の名瀑「布引の滝」に詣でた際、一天にわかにかき曇り雷神となった悪源太義平があらわれ、清盛に同行していた経房は雷に打たれて死んだという。このとき京の都にも六波羅にも雷が落ち、多くの人々が命を失ったという。これを深刻に見た清盛は、大般若経を僧に読経させ、義平の霊を鎮魂したと伝えられる。
頼朝といい悪源太義平といい、源氏の執念恐るべし・・・である。
また長くなってしまったので、明日に続きます。
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by sakanoueno-kumo | 2012-07-17 18:05 | 平清盛 | Trackback | Comments(2)
地方豪族の家にまで備え付けられていたのかな・・・と。
悪源太義平と鎮西八郎為朝といえば法元平治の乱の欠かせぬ豪傑ですからね。もう少し、濃く描いて欲しかったですね。
たしかに・・・(笑)。
まあ、入浴中に殺されたというのは『平治物語』が出典のエピソードですから、どこまで信ぴょう性があるかは疑問ですけどね。
『愚管抄』の方では、長田父子の陰謀を察知した義朝が、正清に自らの首を打つよう命じ、斬首したのちに政清は自害したとされているそうです。
この度のドラマでの設定は、こっちのほうが近いですね。
刺し違えての最期は、なかなか秀逸でした。
悪源太義平も鎮西八郎為朝も、このとき若干10代の若造だったんですよね。
ドラマの鎮西八郎為朝なんて、どう見ても40代のオッサンでしたよ(笑)。
彼らの剛毅さを描くには、若い役者さんでは無理なんでしょうね。
なかなかの迫力でした。
おっしゃるように、そのわりには出番が少なくて残念です。
でもまあ、近年の大河の中ではわりときめ細やかに描いている方なんじゃないでしょうか?