平清盛 第30話「平家納経」
全話の稿(参照:29話)でも述べたとおり、滋子は清盛の妻・時子の異母妹で、実兄には稀代な野心家として名高い平時忠がいた。妹が皇子を出産したことで有頂天になった時忠は、清盛の弟・平教盛と結託して憲仁親王を皇太子の座に据えるべく画策した。しかし、彼らの陰謀はあえなく露見し、激怒した二条帝は時忠たちを解官、後白河院は政治から排除され、国政は天皇と摂関家の合議によって行われることになった。さらに翌年6月、時忠は源資賢ら後白河院政派と共に二条帝を呪詛したという罪をきせられ、出雲国へ流罪となった。このとき後白河院の近臣が多数処罰され、こうして、後白河院政は完全に停止に追い込まれたのである。
「保元の乱」の敗北によって讃岐国に配流となっていた崇徳上皇(第75代天皇)は、その後、二度と京の地を踏むことはなかった。『保元物語』によると、崇徳院は讃岐国での軟禁生活の中で仏教に深く傾倒し、五部大乗経の写本づくりに心血を注いだという。そして完成した写本を、先の乱での戦死者の供養と反省の証に京の寺に収めてほしいと朝廷に送ったところ、後白河院が「呪詛が込められているのではないか」と疑って送り返したという話はドラマのとおり。これに怒り狂った崇徳院は自らの舌を噛み切り、「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」と写本に血で書き込み、爪や髪を伸ばし続け夜叉のような姿のなり、生きながらにして天狗になったとされている。まさしく、ドラマの鬼気迫る演出そのものの伝承である。
崇徳院が崩御したのは長寛2年(1164年)8月で、「保元の乱」から8年後のことである。ドラマでは、最後は穏やかな顔で逝った崇徳院だったが、実際には死後も怨霊として恐れられ続けた。こののち時の為政者たちは、事あるごとに崇徳院の呪いを意識するようになり、慰撫に躍起となっていったという。そうして怨霊としての崇徳院のイメージは武士の時代になっても歴史の中に定着し、死後700年以上経った慶応4年(1868年)には、明治天皇(第122代天皇)の即位に際して勅使を讃岐に遣わし、崇徳院の御霊を京都へ帰還させて白峯神宮を創建するに至った。さらに崇徳天皇800年祭に当たる昭和39年(1964年)には、昭和天皇(第124代天皇)の意向によって香川県坂出市の崇徳天皇陵に勅使を遣わし、式年祭を執り行わせている。まさしくその予言どおり、崇徳院は日本史の中で800年近くもの間「日本国の大魔縁」であり続けた。その生前、天皇・上皇という立場にありながら一度として実権を持てなかった崇徳院だったが、死後、日本史の中に強烈な存在感を残した。
清盛の次男・平基盛が死去したのは崇徳院の怨霊ではなく、同じく「保元の乱」の敗北者である藤原頼長の怨霊に祟られ溺死したと、『源平盛衰記』には記されている。享年24歳。先に述べた時忠の教盛の憲仁親王皇太子擁立の企てに関わっていたようで、彼らと同日に解官されていたが、その人となりは兄の平重盛に勝るとも劣らない有能な人物だったとか。その早世に、さぞや清盛は嘆き悲しんだことだろう。
長寛2年(1164年)9月、清盛は一門の栄達を感謝し来世の冥福を祈るため、厳島神社に写経を奉納した。今も同社に伝わる国宝『平家納経』である。『平家納経』は平家の繁栄を願って一門同族郎等が1人1巻を分担して書写したもので、清盛の自筆願文に「書写し奉る妙法蓮華経一部廿八品、無量義、観普賢、阿弥陀、般若心経等各一巻」とあるように、32巻の経典のことで、願文を合わせると33巻になる。清盛を始め、重盛とその子息、頼盛、教盛、経盛等、32人にそれぞれ1品1巻ずつを当てて制作にあたった。ドラマでも描かれていたように、表紙絵や経典の外装、それらを収める経箱の工芸美など、当時の技巧の粋を集めた豪華な巻物で、平安末期美術工芸史上の代表作品とされている。その善美を尽くした経典は平家の絶頂を示すものといわれ、その栄華のほどを物語っている。今まさしく、平家は全盛期を向かえようとしていた。
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by sakanoueno-kumo | 2012-07-30 21:34 | 平清盛 | Trackback(1) | Comments(0)
