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宮本武蔵も築城事業に関わったといわれる「明石城」を散策。

本日はJR明石駅北側の明石公園内にある、明石城跡を紹介します。

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別名、喜春城(きはるじょう、きしゅんじょう)、または錦江城(きんこうじょう)とも呼ばれる明石城は、元和3年(1617年)に信州松本城主より明石藩主となった小笠原忠真が、江戸幕府二代将軍・徳川秀忠の命により、岳父にあたる姫路城主・本多忠政の協力を得て築城したものです。

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明石城に天守閣はありません。
慶長20年(1615年)の大坂夏の陣を最後に戦乱の時代が終わり天下太平となったという、いわいる「元和偃武」の時代に築かれた城には天守閣のないものが多いそうです。
ただ、いつでも天守閣を建てられるように大きな天守台は設けられていました。

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「坤櫓」(ひつじさるやぐら:左) と 「巽櫓」(たつみやぐら:右)です。
国の重要文化財に指定されています 。

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空の色が青かったら、もっといい写真になったんですけどね・・・残念でした。

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「坤櫓」の石垣です。
天守閣が造られなかった明石城では最大の規模の櫓で、たいへん立派な石垣です。

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「坤櫓」と「巽櫓」を結ぶ長大な塀(帯廓)は、明石市街地を見渡せる展望台となっています。
「巽櫓」の向こうに見えるのは、本州と淡路島を結ぶ明石海峡大橋です。

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「坤櫓」の向こうに見えるのは明石球場です。
この写真を撮影したのは7月のことで、実はこの日ここを訪れたのは、わが愚息の高校野球兵庫県予選の観戦が目的でして、その試合開始までの待ち時間で城跡を散策していました。

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球場内から見ると、こんなロケーションとなります。
プロ野球のオープン戦も行われるいい球場です。

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明石の地は播磨国に位置し、山陽道が通り、北には丹波国但馬国への道が分かれ、淡路島四国のルートがあり、古来より交通の要衝でした。
そのため徳川幕府は、西国の外様大名の抑えの城として、姫路城についでこの明石城を重要視していたといいます。

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苦心して明石城を築城した小笠原忠真は、15年ほどで豊前国小倉藩(小倉城)に転封となり、それ以後わずか50年の間に城主が目まぐるしく入れ替わりましたが、天和2年(1682年)に越前家の松平直明が6万石で入城し、以後、明治維新まで10代189年間親藩として松平氏の居城となりました。
そして明治7年(1874年)の廃城令により廃城となり、その後、明治16年(1883年)に明石町の有志によって整備されて明石公園となり、大正7年(1918年)には兵庫県立明石公園となって現在に至ります。

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話は築城当時に戻って、ちょうどそのころ小笠原忠真の客分として姫路にいた剣豪・宮本武蔵が、明石城築城に伴う明石城下町の町割り(都市計画)を指導したと言われています。
享保年間(1716〜36年)の地誌『明石記』には、「宮本武蔵ト云士町割有之ト云」とあり、小笠原家に伝わる『清流話』には、城内の庭園や藩主の御屋敷の建設を武蔵に命じたとされており、武蔵が何らかのかたちで築城事業に関わったことは事実だと考えていいのかもしれません。

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公園内は緑に囲また自然豊かな環境で、私も子どもが小さかった頃はたびたび自転車を車に乗っけて弁当持参で訪れました。
春には桜の名所として、たくさんの花見客で賑わいます。
今度は桜の季節にでも、また取材して紹介してみたいと思います。

追記
2017年より日本100名城スタンプの収集をはじめました。

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by sakanoueno-kumo | 2012-09-06 17:28 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback(1) | Comments(4)  

Tracked from 平太郎独白録 親愛なるア.. at 2012-09-12 18:47
タイトル : この忙しいのに熊本城と阿蘇山行ってきました。
親愛なるアッティクスへ 9月になったら少しはゆっくりする予定だったのですが、まったくそうなっておりません。 毎日毎日、晩飯食うのは0時近くなっています。 今日も後少しで日付が変わるので、何とかその前に帰りたいと思っております。 ところで、先般、この忙しいのに子供がまだ、熊本城行ったことがないというもので熊本行ってきました。 私も実を言うと、まだ、熊本城に御殿が出来てからは行ってませんでしたので、多忙は多忙、好機逸すべからず・・・と(笑)。 (←伝・豊臣秀頼の間・・・です...... more
Commented by heitaroh at 2012-09-12 18:18
ようやく一段落しました。
もっとも、多忙中に先送りしていた案件の処理が溜まっており、まだまだ忙しくしてますけどね(笑)。

さてさて、明石城・・・。
初めて知りましたが、豊前小倉の小笠原家はここからの転封でしたか。
小笠原家も小倉に転封したばかりに幕末には高杉晋作の長州諸隊により落城の憂き目を見ることになったわけで、ふんだり蹴ったりですね。
Commented by しばやん at 2012-09-12 22:44 x
4年ほど前に明石城の桜を見ましたがとてもよかったです。
櫓の白壁や石垣は、桜ととてもよく合いますよ。

こういう素晴らしい公園が駅前にあるのはいいですね。

しかし、この城の建築に宮本武蔵が関わっていたことは初めて知りました。宮本武蔵は剣ばかりではなく書も絵も素晴らしいですが、建築から作庭までやっていたとはすごい人物ですね。



Commented by sakanoueno-kumo at 2012-09-13 22:10
< heitarohさん

ようやく一段落されましたか。
私は逆に、ようやく忙しくなってきました(笑)。
8月はヒマでヒマで、オリンピックばかり見てましたから(苦笑)。

そっかそっか、あの小笠原家がこの小笠原家の末裔なんですね。
考えてみれば、この明石同様、小倉も九州と本州を結ぶ交通の要衝ともいうべき土地ですから、それだけ幕府から信頼されていた証でしょうか(ダジャレではないですよ)。
その幕府軍の不甲斐なさから落城に至ることになるわけですから、たしかにふんだり蹴ったりですね。
Commented by sakanoueno-kumo at 2012-09-13 22:17
< しばやんさん

私も10年以上前に一度花見に訪れたことがあります。
ただ、そのときは幼い子どもを連れていましたので、城まわりではなく遊具のあるエリアでしたけどね。
今度は櫓のまわりで桜鑑賞をしてみたいと思います。

武蔵の実像は、むしろ剣以外の才にあったんじゃないでしょうか。
二刀流の剣豪・宮本武蔵の人物像こそ、後世につくられた虚像がたぶんに含まれているように思います。

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