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平清盛 第35話「わが都、福原」

 出家して入道相国(入道は出家した人、相国は太政大臣)と呼ばれるようになった平清盛は、仁安4年(1169年)春、六波羅の邸宅を嫡男の平重盛に譲り、摂津国福原に山荘を作って隠棲した。これ以後、日常の政権運営は京にいる一門にゆだね、清盛自身は必要に応じて上洛し、政局を収拾すると福原に戻るといった政治スタイルを貫くことになる。これは鳥羽院政時代、藤原忠実が宇治に別荘を構えて隠居したことにならったといわれており、中央政界から距離をおくことで、かえって自身の存在感を高めようとする人心掌握の策だったとも考えられている。

 清盛と福原の関係は、「平治の乱」後ほどなくして始まったといわれている。背後にそびえる六甲山地と南に広がる海原の間に挟まれた風光明媚なロケーションに魅せられ、そして何よりも古代から良港として知られている大輪田泊(奈良時代に行基が開いた五泊の一つ)が、かねてから日宋貿易に意欲を燃やしていた清盛にとっては大きな魅力だったのだろう。九世紀末の遣唐使廃止以後、中国との正式な国交は途絶えていたが、博多を始めとする九州沿岸では有力な荘園領主による密貿易が盛んに行われていた。平家も清盛の父・平忠盛の時代から日宋貿易に携わり始め、保元2年(1157年)に清盛が太宰大弐(太宰府の実質的な長官)に就任して以降は、さらに積極的に関与するようになった。そしてそれをさらに大規模に推し進めるために、清盛は福原の外港である大輪田の泊を修築し、ここに宋船を迎え入れようと考えたのである。『愚管抄』「平相国ハ世ノ事シオホセタリト思ヒテ出家シテ、摂津国ノ福原ト云所ニ常ニハアリケル」とあるとおり、これ以後、清盛は福原を本拠として日宋貿易に注力しながら、京都の政治を遠隔操作していくことになる。

 清盛の弟・平頼盛が甥の重盛より出世が遅れていたのはドラマにあったとおりで、27歳で正三位、28歳で早くも参議となった重盛に対し、頼盛は33歳で正四位下・修理大夫に過ぎず、重盛の叔父という立場にありながら甥に遅れをとっていた。その理由については、清盛と頼盛の異母兄弟という間柄からくる確執といわれたりもするが、事実はどうだったのだろうか。もっとも、頼盛と重盛は叔父、甥の関係とはいえ、年齢差はわずかに5歳差。棟梁の嫡男である重盛が先に出世するのは当然のことだという見方もある。事実、頼盛はかつて清盛が自身が就いていた太宰大弐に任命され、重盛に遅れること3年後には従三位に叙せられ、重盛以外の清盛の息子たちよりは先に平家では3人目の公卿となった。参議となったのは平宗盛平教盛に次いで5人目だったものの、清盛の福原隠棲後は、重盛とともに清盛の代理人的立場として頼盛を重用していた。清盛は決して頼盛を疎んじていたわけではなかったようである。

 そんな頼盛が、参議就任直後に解官されたのはドラマのとおりである。その理由についてもドラマで描かれていたとおり、後白河上皇(第77代天皇)への出仕を度々怠ったことだといわれており、後白河院の怒りは激しいものだったようで、息子の平保盛ともども全ての官職を奪われてしまった。なぜ後白河院への出仕を怠ったのかは定かではない。摂政・藤原基房八条院暲子内親王、後白河院の第二皇子・以仁王の策略だったというのはドラマのオリジナルである(たぶん)。ドラマでは描かれていなかったが、この時期、重盛は病により健康がすぐれず、権大納言を辞任する事態に至っている。そんな中、もうひとり京を任せていた頼盛の軽々な行動を、清盛はきっと苦々しく思っていたことだろう。頼盛の失脚は長きに渡り、出仕が許されたのは1年後のことだった。


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by sakanoueno-kumo | 2012-09-10 00:55 | 平清盛 | Trackback(3) | Comments(4)  

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Commented by SPIRIT(スピリット) at 2012-09-10 20:34 x
逆に頼盛は頼朝の時代ではうまく生き残ったみたいですけどね。
貴族社会ではうまく立ち回れない不器用さがあったのでしょうか。
Commented by sakanoueno-kumo at 2012-09-12 16:29
< SPIRIT(スピリット) さん

上手く立ちまわって生き残ったというより、単に節操がなかっただけのようにも思えますけどね。
頼朝に厚遇されたのも死んだお母ちゃんのおかげだと言われますしね。
後世に人気がないのも頷けるかな・・・と。
Commented by heitaroh at 2012-09-12 18:58
ようやく一段落しましたのでかねてより疑問に思っていたことを二つばかり・・・。

まず、平治の乱では平家軍が一斉に空に向けて矢を放ち、放物線を描かせて源氏軍の将兵の上に降り注がせるという戦法をとってましたよね。
あれって、ラストサムライの時も思ったのですがヨーロッパ流の射撃方法で日本では存在しなかったのでは?
平治物語絵巻でも騎馬武者は相手に向けて一直線に矢を放っているように描いてありますし、そもそも、一斉射撃なんて発想があったのでしょうか?
この点で思うのがもう一つの疑問。
これまでの源平物では、戦闘に臨んで「やあやあ我こそは・・・。」と名乗りを上げていたと思うのですが、今回の大河ドラマではまったく出て来ませんよね。
随分と戦国期の戦闘スタイルと混同しているように思うのですが、わざわざ、削除したということは何か理由があるのでしょうか?
名乗りを上げるということも後世の創作・・・だったのでしょうか?
Commented by sakanoueno-kumo at 2012-09-13 22:15
< heitarohさん

おっしゃるとおりで、私もまったく同じことを思っていました。
ヨーロッパ流の射撃方法とは知りませんでしたが、すくなくとも一斉射撃なんて戦法が日本に輸入されたのは、元寇以降のことですよね。
蒙古襲来のとき、日本兵が「やあやあ我こそは・・・」と名乗りをあげて戦おうとしたら、蒙古軍の一斉射撃でたちまち撃ち殺された・・・という話は、中学校の歴史の時間でもでてくる話ですよね。
なぜあのような戦の描き方をしたのか甚だ疑問です。

今年の大河ドラマは近年の作品の中では私は面白いと思っているのですが、天皇家のドロドロした人間模様など、そこまで忠実に描かなくても・・・と思うところがあるかと思えば、こういったいい加減なところもあったりで、イマイチ趣旨がつかみきれないでいます。
そのへんが視聴率にも関係しているのかもしれませんね。

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