KOBE de 清盛 史跡めぐり その3

養和元年(1181年)に死去した清盛は京都で荼毘にふされ、その後この寺の住職・圓實法眼が清盛の遺骨を持ち帰り寺領内に葬ったと伝えられています。
その後、平家の滅亡により能福寺と共に「平相国廟」も灰燼に帰したそうですが、約100年後の弘安9年(1286年)、時の執権・北条貞時が平家一門の盛衰を哀れみ、石塔を建て清盛の霊を弔ったと伝えられています。
その2で紹介した「清盛塚」と同じ伝承ですね。
どちらかが本物でもう一方は間違いなのか、あるいはどちらも同時期に建てられたのか、定かではありません。
というのも、ここ能福寺は暦応4年(1341年))兵火により全焼したといわれていおり、その後、慶長4年(1599年))長盛法印によって再建されたと伝えられています。
現在ある「平相国廟」は、平清盛の800年忌を迎えるに際して、昭和55年(1980年)に再建されたものです(中央に建つ「十三重石塔」は、貞時が建設した当時のものだとか)。

「平相国廟」の復興に伴い、「十三重石塔」の右側に、かつて能福寺の住職で清盛剃髪出家の師匠である圓實法眼を弔った「圓實法眼宝篋印塔」、左側には清盛の弟・平教盛の長子で圓實法眼の弟子であり、かつて能福寺の住職であった忠快を弔った「忠快法印塔(九重塔)」も同時に建てられたそうです。
これら両印塔は、いずれも鎌倉時代に作られたものだと伝わっています。

実際には、清盛の遺骨はどこに埋葬されたのでしょうか?
『平家物語』の「入道死去」や『吾妻鏡』の記述によると、臨終直前の清盛は、自分が死んだ後は播磨山田の法華堂(神戸市垂水区)に埋葬するよう遺言を残しており、また、京都に立派な堂塔を建てたり、盛大な仏事を行ったりしてはならないと命じていたそうです。
法華堂は現存しませんが、播磨山田の地は明石海峡に面した風光明媚な場所で、おそらくは清盛が何度も船から眺めた地であり、平家にとって海陸の拠点のひとつであったと考えられています。
ところが、どういうわけか後継者となった平宗盛(清盛の三男)は、父の遺言を忠実に実行していません。
「入道死去」の記述によれば、宗盛は清盛の遺体を愛宕(京都市右京区)で荼毘にふした後、摂津の経ヶ島(神戸市兵庫区)へ埋葬したといいます。
経ヶ島とは清盛が大輪田泊を整備した際に、風浪を緩和するために築かれた人工島です(大河ドラマで兎丸が監督していた事業ですね)。
経ヶ島が築かれた詳しい場所はわかっていませんが、この説に基づいて、この付近の「清盛塚」や「平相国廟」の伝承が後世に受け継がれてきたのでしょう。
それにしても、宗盛がなぜ父の遺言どおりに遺骨を法華堂に埋葬しなかったのかは謎です。
まあ、そもそもそんな遺言があったかどうかも定かではないですけどね。

ちなみに清盛の墓碑と伝わるものとしては、京都市東山区にある六波羅密寺の境内にも存在するそうです。
六波羅密寺は清盛の父・平忠盛が堂宇を寄進した寺院であり、清盛の遺骨が埋葬されたとしても不思議ではありません。
ただし、だとすれば寿永2年(1183年)の平家都落ち以降は、そのままにしておくと源氏方の手で墓を暴かれる可能性があったでしょう。
事実、清盛の嫡子・平重盛の遺骨は都落ちの前後に平家側近の手によって掘り出され、紀伊高野山へ改葬されたとも伝わります。
あるいは清盛の遺骨も、都落ちの際に宗盛らの意向で掘り出され、どこかに改葬されたかもしれませんね。
「平相国廟」の隣には、「平家源氏将兵戦没者五輪供養塔」というものがありました。
説明看板のようなものがなかったため詳しいことがわからないのですが、これも鎌倉時代のもののようです。↓↓↓

あと、清盛には関連しませんが、ここ能福寺に鎮座する兵庫大仏(胎蔵界大日如来像・毘慮舎那仏)を、ついでに紹介します。

兵庫大仏は、兵庫港開港以来急速に増えたキリスト教信者に危機感を抱いた仏教徒らが、キリスト教に対抗して仏教徒のシンボルとなる大仏建立を進めたといいわれており、明治23年(1891年)に豪商・南条荘兵衛の寄進により建立されました。

この兵庫大仏は身丈(像高)11m、重量約60t、蓮台高3m、台座高4m、総高18mあり、奈良の大仏(東大寺・蘆舎那仏)、鎌倉の大仏(長谷高徳院・阿弥陀如来)と並んで日本三大仏に数えられています。

大仏座の下には永代祠堂があり、ここに安置されている十一面観世音菩薩立像は平安朝初期に作られた檜の一木造りで、滋賀県甲西町善水寺から請来したと伝えられ国の重要文化財に指定されています。
なかなか精悍な顔ですね。↓↓↓

昭和19年(1944年)、第2次世界大戦の金属回収令で兵庫大仏は解体されて国に供出され、また、翌年3月の神戸大空襲によって伽藍は全焼してしまいましたが、大仏建立100年目の平成3年(1991年)に再建されました。
金属回収の際、大仏の胎内に納められていた胎内仏は供出されることなく保存され、大仏が再建されたとき再び胎内に納められたそうです。

日本三大仏といっても、他のふたつに比べてずいぶんと歴史は浅いものですけどね。
そんなこんなで、この辺でひとまず「KOBE de 清盛 史跡めぐりシーリズ」を終わります。
ただ、神戸にはまだまだ平家ゆかりの史跡が数多くありますので、折りをみてまた紹介出来たら、と思っています。
KOBE de 清盛 史跡めぐり その1
KOBE de 清盛 史跡めぐり その2
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by sakanoueno-kumo | 2012-10-17 18:37 | 神戸の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)