八重の桜 第3話「蹴散らして前へ」 ~山本覚馬と八重~
祖父の左兵衛には跡取りがいなかったため、娘・佐久の婿として養子を迎え入れ、砲術指南役を継がせました。それが、八重の父・山本権八です。権八と佐久の間には三男三女が生まれましたが、次男、長女、次女は夭折し、成人したのは長男の覚馬、三男の三郎、そして三女の八重だけ。八重の人生に大きな影響を及ぼすことになる兄の覚馬は、17歳も年上でした。
藩校・日新館で神童と呼ばれた秀才・山本覚馬は、嘉永6年(1853年)、22歳で江戸に出て蘭学を学びます。このとき、佐久間象山や勝海舟と出会うのは前話までにあったとおりですね。嘉永6年といえば言うまでもなく黒船来航のあった年。覚馬がその目で黒船を見たかどうかはわかりませんが、この出来事が当時の若者たちに与えた衝撃ははかり知れず、おそらく覚馬もその例外ではなかったでしょう。この江戸出府の期間中、覚馬は蘭学や西洋砲術の研究に没頭していたようです。そして28歳のとき会津に帰国、このとき八重はかぞえで11歳でした。綾瀬はるかさんでは、まだちょっと無理があるかも・・・(笑)。
帰国後、覚馬は西洋式の砲術や兵法の重要性を説き、軍備の近代化を推し進めようとします。しかし、執拗に軍制改革を主張したことが保守的な上層部の反感を買ってしまい、1年間ほどの禁足処分を受けてしまうのはドラマのとおりです。戦国時代、鉄砲は身分の低い足軽が持つ武器でした。それから時代は200年以上経っていましたが、依然として武士の世界では剣術や槍術、弓術が重んじられ、砲術に対する評価は低いものでした。軍制改革とは、すなわち武士が鉄砲を持つこと。とりわけ会津藩は宝蔵院流の槍術で知られた藩で、鉄砲にしても、戦国時代以来変わらず火縄銃。刀槍の時代ではないという覚馬の主張が容易に受け入れられるはずはなかったことは、想像に難しくありません。しばらくは不遇をかこつ覚馬ですが、しかし、時勢が覚馬を必要とするときが、こののちやってきます。
お転婆娘の八重が柄にもなく裁縫を習っていましたね。でもこれは当時の武士の娘としては当然のたしなみで、幼少期の女子は、小笠原流の作法や手芸、機織り、女今川、そして薙刀も習います。針仕事の稽古は、最初は雑巾、次は足袋の底、続いて袖口や褄、そして着物が一枚仕立てられるようになれば、嫁入りの資格ができたとみなされたそうです。もちろん八重も例外ではなく、幼馴染の日向ユキの談によれば、一緒に近所の高木のおばあさんから針仕事を習っていたとか。でも、どうやら裁縫はあまり得意ではなかったようです。
立派な兄を慕い、兄のようになりたいと願っていた八重は、活発で男勝りの幼少期だったようです。駆けっこや石投げでも男の子に負けていなかったらしく、ドラマであったように、13歳の頃には四斗俵を掴んで肩に上げ下げできたとか。世が世ならば運動選手になっていたかもしれないと、後年の八重自身が語っていたそうです。現代ならば、重量挙げのオリンピックメダリストになっていたかもしれませんね。
会津藩随一の秀才の兄と、会津きってのお転婆娘の妹。なんとも不つりあいな組み合わせの兄妹ですが、八重は兄・覚馬を生涯慕い、覚馬は妹・八重を生涯頼りにします。そんなふたりの強い絆の話は、今後の物語の展開にゆずることにしましょう。
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by sakanoueno-kumo | 2013-01-21 01:04 | 八重の桜 | Trackback(2) | Comments(0)


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