仕事ついでの駿河国紀行 その2 ~徳川慶喜公屋敷跡~

駿府城跡を離れ、土産を買うべくJR静岡駅近くのビル街を散策していると、偶然、徳川慶喜公屋敷跡と書かれた石碑が目に止まりました。

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石碑の横には堂々の門構えがあり、「浮月楼」とあります。
公共の史跡ではなさそうだったので、おそるおそるなかを覗いてみると、どうやらそこは高級料亭のようでした。
徳川慶喜隠棲の屋敷が、いまでは料亭として残されているんですね。

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徳川慶喜といえば言うまでもなく、徳川幕府最後の将軍となった人物。
「権現様(徳川家康)の再来」と期待された英明な将軍・徳川慶喜でしたが、その実力を発揮しないまま、将軍就任わずか1年で大政奉還を行い、徳川幕府三百年の幕を引きます。
その後の王政復古戊辰戦争により朝敵となった慶喜でしたが、江戸総攻撃の前に行なわれた旧幕臣・勝海舟と新政府軍参謀・西郷隆盛との交渉により死罪を免れ蟄居の身となり、自身の故郷である水戸で謹慎した後、ここ駿府に移されました。
そのとき慶喜32歳。
現代で言えばバリバリ働き盛りの歳ですが、慶喜はその後、ほぼ隠居のような人生となります。

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説明看板によると、ここは元の代官屋敷で、近くに鉄道が通りうるさいというので西方へ転居するまで、慶喜は21年間ここに住んだそうです。
慶喜転居ののち払い下げられ、料亭となって現在に至っているそうです。
明治時代には、伊藤博文西園寺公望、井上馨、田中光顕など、錚々たる元勲たちに贔屓にされていたとか。
私は・・・、そんな由緒ある料亭の敷居をまたぐ甲斐性などあるはずもなく、こっそり外から眺めて写真だけ撮ってきただけです(笑)。
(看板によると、庭園はたいそう有名な庭師の作庭だそうです。)

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ところで、その後の慶喜は、明治30年に静岡を離れ、東京に移り住みました。
将軍就任、大政奉還と波乱に満ちた前半生の慶喜でしたが、32歳から約30年の後半生を静岡で目立たぬよう暮らしたことになります。
静岡隠棲の間、多くの女性との間に男10人女11人という子を持つ一方、鉄砲、自転車、写真など、多彩な趣味を楽しんだといいます。
一方で、旧幕臣や明治政府に不満を持つ元士族などには、決して会わなかったとか。
さすがは英明と称された慶喜、自身がそれらの者たちに担がれたら、どんな混乱を起こすか、自身の言動がどう政治的に利用されるか、ちゃんとわかっていたんですね。

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明治政府の足元が固まるまで、じっと30年間逼塞していた慶喜。
ある意味では、明治政府にとって最大の功労者の一人だったといえるかもしれません。
作家・司馬遼太郎氏は慶喜の半生を描いた小説『最後の将軍』のなかで、松平春嶽談として慶喜のことを「百の才智があって、ただ一つの胆力もない」と評していますが、はたしてそうでしょうか?
32歳という血気盛んな年齢から隠居の身となり、その後、新政府に対してことを荒立てるような行動をいっさい起こさなかったことこそが、百の才智であり、胆力であったといえなくもないです。
通常、歴史上の偉人は何事かを成して歴史に名を刻みますが、慶喜の場合、何もしなかったことが最大の功績だったという、歴史上たいへん稀有な存在だといえるでしょうか。


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by sakanoueno-kumo | 2013-02-16 16:32 | 静岡の史跡・観光 | Trackback(1) | Comments(2)  

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Tracked from 平太郎独白録 親愛なるア.. at 2013-02-19 15:43
タイトル : 幕末における大局的見地からみた最大の功労者としての徳川慶喜
親愛なるアッティクスへ ←民主党の岡田さんです。 痩せましたネー・・・って、違いますよ! 坂本龍馬の懐刀にして、不平等条約の改正に尽力した明治の外務大臣、陸奥宗光です(笑)。 息子の小学校の歴史の教科書で見つけました。 ・・・似てませんか? 冗談はさておき、以前、私は、ある友人と幕末の人物について話をしたことがあります。 友人は、「今日の日本があるのは河井継之助のような人がいたからこそだ・・・」と。 それに対し、私は、「彼がやったことは、ナポレオンと一緒で、多くの人を殺して、国...... more
Commented by 高木一優 at 2013-04-21 00:38 x
こちらの記事にもおじゃまさせていただきました
静岡駅には仕事で何度も行ったのですが、こんなところに慶喜隠棲の地があったとは知りませんでした
てっきりもっと田舎の方かと思ってました
「最後の将軍」はずいぶん前に読みました
百の才知、頭がよすぎたんでしょうね
胆力に関しては立場がそうさせなかたのでしょうか
もし、慶喜が薩長に生まれていたら評価もまったく違っていたのかも知れませんね
Commented by sakanoueno-kumo at 2013-04-22 19:43
< 高木一優さん

コメントありがとうございます。

>頭がよすぎた
>立場がそうさせた

まさしくおっしゃるとおりだと思います。
後世の人たちは、結果を知ったうえで評価しがちですが、瓦解寸前の政権の党首という立場で冷静に考えると、違った評価になると思うんですけどね。

>慶喜が薩長に生まれていたら評価もまったく違っていた

これもおっしゃるとおりですが、でも、歴史は最後の将軍に彼を選びました。
おそらく、彼は幕府側に必要な人間だったのでしょう。

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