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八重の桜 第9話「八月の動乱」 〜八月十八日の政変〜

 文久3年(1863年)8月18日、朝廷内にクーデターが起きました。世に言う「八月十八日の政変」です。長い日本史のなかには、古くは「大化の改新」から近代では不成功に終わった「二・二六事件」まで数多くクーデターが起きましたが、幕末にも2回のクーデターが行われ、いずれも成功しています。そのひとつは、これより4年後となる慶応3年(1867年)12月の尊王討幕派による「王政復古」のクーデターで、もうひとつが、今話の「八月十八日の政変」です。

 この8・18クーデターとはどのようなものだったのかというと、一口にいえば、京都を制圧しているかのように見えた尊皇攘夷派勢力に対し、公武合体派が巻き返しを行い、尊攘派を京都から一掃し、政局の主導権を奪取したというものです。同年5月10日の攘夷決行(下関戦争)によって朝廷から褒勅の沙汰を享けた長州藩でしたが、以後、朝廷の政に何かにつけ口を出すようになり、暴徒の激しさも増していきます。しかし、あまりにも過激な長州藩の行動を持て余した公武合体派の中川宮朝彦親王近衛忠熙近衛忠房らが、この当時御所の警備を任されていた薩摩藩・会津藩と手を結び、攘夷派の三条実美をはじめとする7人の公卿を朝廷から一掃(七卿落ち)、長州藩の軍勢たちも公卿を守って京から落ちていったというものです。

 孝明天皇(第121代天皇)は強烈な攘夷論者でしたが、政治体制の変革などは望んではいませんでした。天皇の考えは、あくまで幕府を中心に公武合体で行う攘夷だったわけです。一方の尊攘派は、天皇の意志が攘夷にあるからと、その「攘夷」をたてにとって行動してきました。攘夷さえ行えば天皇の意志を尊重することになると考え、天誅で猛威をふるい、やがてはそれが討幕論にまで及びはじめます。しかし、当の孝明天皇はそんな尊攘派に恐怖すら感じていたようで、次第に彼らを疎んじるようになっていくんですね。孝明天皇にしてみれば、過激なラブコールを贈る尊攘派は、ある種、ストーカーのような怖さがあったのかもしれません。

 クーデターは成功に終わり、公武合体派は朝廷での主導権を完全に掌握しました。クーデター成功の原因のもっとも大きなポイントは、公武合体派が天皇を手中に収めたことでしょう。のちに天皇は尊攘派などから「玉(ぎょく)」と呼ばれましたが、この「玉」を手にすれば天皇の名で命令を出すことができ、これに反抗することは、とくに「尊王」攘夷派であるかぎり不可能でした。天皇を尊び、天皇のために命をも賭けた尊攘派たちは、天皇の意志によって「朝敵」にされるという、なんとも皮肉な話といえます。

 この政変をいたく満足した孝明天皇は、8月28日に京都守護職・松平容保や京都所司代・稲葉正邦ら在京の諸藩主らが参内した際、次のような宸翰(しんかん)を発布しました。

 「是迄、彼是、真偽不分明之義有之候へ共、去る十八日以後申出候義は、朕が真実の存意に候。此辺、諸藩一同心得違無之様之事」
 (意訳:これまでは、かれこれ真偽不明分の儀があったけれども、去る18日以後に申し出ることが、朕の真実の存意であるから、このあたり諸藩一同、心得違いのないように)


 つまり、これまで言ってきたことは全部インチキで、18日の政変以降にいったことが本心だよ・・・と。政変で失脚した尊攘派にしてみれば、ふんだり蹴ったりのお言葉ですね。とくに、松平容保に対する孝明天皇の信頼は厚く、ドラマにもあったように、ご宸翰(ごしんかん:天皇直筆の手紙)と御製(ぎょせい:天皇の和歌)を下賜されます。

 「堂上以下、疎暴の論、不正の処置増長につき、痛心に堪え難く、内命を下せしところ、すみやかに領掌し、憂患掃攘、朕の存念貫徹の段、まったくその方の忠誠にて、深く感悦のあまり、右一箱これを遣わすもの也  文久三年十月九日」 
 (意訳:堂上以下が、乱暴な意見を連ねて、不正の行いも増え、心の痛みに耐えがたい。内々の命を下したところ、速やかにわかってくれ、憂いを払い私の思っていることを貫いてくれた。全くその方の忠誠に深く感悦し、右一箱を遣わすものなり)


 文中にある「一箱」とは御製の入ったもので、次の2種の和歌が記されていました。

 たやすからざる世に 武士(もののふ)の忠誠の心をよろこびてよめる
 「和らくも たけき心も相生の まつの落葉の あらす栄へむ」
 「武士(もののふ)と こころあはして いはほをも 貫きてまし 世々の思ひて」

 (意訳:難しき世に武士(容保のこと)の忠誠の心を喜びて詠む
 「世にやすらぎを求める心も、敵に立ち向かう猛々しい心も相生の松のように根は一つ。松の葉が落葉しないように共に栄えようではないか。」
 「もののふと心を合わせて岩(困難)をも貫き通すことを私(朝廷)は末永く願う。」


 しかしその容保も、5年後の戊辰戦争では逆に朝敵第一とされたのも、歴史の皮肉といえるでしょうか。容保は終生、このご宸翰と御製を肌身離さなかったといいます。


 「八月十八日の政変」については以前の稿でも書いていますので、よければ一読ください。
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 「八月十八日の政変」と、幕末における長州藩の役割。
 

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by sakanoueno-kumo | 2013-03-08 23:08 | 八重の桜 | Comments(0)  

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