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八重の桜 第18話「尚之助との旅」 ~大政奉還~

 いよいよ幕末史の大詰、物語は慶応3年(1867年)の後半期を迎えました。この時期になると、あくまで幕権強化を是とする佐幕派と、武力で幕府を倒そうという倒幕派の緊張がますます高まるなか、そのどちらでもない第三の道として、幕府自ら政権を朝廷に返還し、武力を用いないで、平和的に幕府専制を解消して、新たな政治機構を作ろうとする運動が活発になります。いわゆる「大政奉還論」ですね。この3つの運動が並行的にからみ合いながら進展していたので、政局はきわめて複雑な様相を示します。

 大政奉還論を中心的に推進したのは土佐藩でした。その土佐藩の代表者は前藩主の山内容堂であり、その腹心である後藤象二郎が藩内でもっとも実力を持っていました。その後藤に大政奉還論を教えたのが、あの坂本龍馬ですね(参照:龍馬伝第43話「船中八策」)。龍馬の示した構想は、上下二院制など外国の立憲制にのっとった近代的な統一国家の構想で、これまで薩摩藩の西郷隆盛らが推し進めてきた列藩会議の構想よりもずっと進んだものでした。しかし、これを受けた後藤はあくまで列藩会議のかたちをとり、その列藩会議の議長に旧将軍が就任し、徳川本家の権威は持続させる、名目は朝廷の一元政治である、という妥協方針を立てます。山内容堂も、これならば賛成であり、後藤らはこの案を慶応3年(1867年)10月3日、老中に提出し、大政奉還を説きます。

 土佐藩から大政奉還論を上申された幕府でしたが、すでに将軍・徳川慶喜やその側近にはその論は入説されていました。したがって慶喜以下幕府首脳は、これをどうするか、すでに検討を加えていたのです。これまで幕権強化に力を注いできた慶喜も、ここにきて、なんらかのかたちでこれまでの幕府政治の形態を変えなければならないと感じとっていたのでしょう。薩長を中心に討幕運動が進められていることは明らかであり、しかもイギリスがその後押しをしていることもわかっている。第二次長州征伐では、長州一藩相手でも歯が立たなかった。そのほかの諸大名も幕府にソッポを向き始めている。民心の動向を見ても、幕政に対して非難が集中している。そんななか、この際なんらかの思い切った手だてが必要と考えたのも、当然だったといえるでしょう。

 そこへ飛び込んできたのが、土佐藩の大政奉還論でした。迷った慶喜はこの案を採り入れる決意をします。そして慶応3年(1867年)10月14日、慶喜は大政奉還の上表を朝廷に提出しました。これにより、250年続いた徳川政権は名目上終わりとなったわけですが、それは名目上であって、事実上はそう簡単なことではないと慶喜はふんでいたと考えられます。政権を返されたとて、250年もの間政治から遠ざかっていた朝廷に政権運営能力はなく、実質的にはこれまでどおり徳川家が運営していくこととなる。慶喜はこの大政奉還に便乗して、あるいはこれを利用して、これまで以上に幕権を強化していこうとさえ考えていたといわれています。天皇を隠れ蓑にして実権を握る・・・つまり、名を捨てて実を取るというわけですね。たしかに、内乱を回避して、なお且つ徳川本家を守るという道は、この時点ではもはや大政奉還しか道はなかったでしょう。その意味では、慶喜の選んだ道は最良の方策だったといえます。しかし、大政奉還後の構想は、慶喜が考えるほどあまいものではありませんでした。慶喜が考えるほど、討幕側は馬鹿じゃなかったんですね。そこが、来週のタイトルどおり、「慶喜の誤算」だったのでしょう。


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by sakanoueno-kumo | 2013-05-07 00:16 | 八重の桜 | Trackback | Comments(0)  

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