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八重の桜 第29話「鶴ヶ城開城」  ~会津戦争終結~

 奥羽越列藩同盟の諸藩は次々と新政府軍に降伏していきましたが、9月に入ると、同盟結成の中心的役割を果たした大藩、米沢藩仙台藩までもが新政府軍の軍門に下ります。これで残った同盟国は会津藩庄内藩だけとなりました。孤立無援状態となった鶴ヶ城内の会津兵は懸命に抗戦を続けますが、新政府軍の攻撃力は増すばかりでした。ある史料によれば、城内の会津兵約3千人に対し、城を包囲した新政府軍は3万人ともいわれます。そんな圧倒的な兵力差のなか、9月14日の総攻撃では、約50門もの大砲が火を吹き、八重の記述によれば、午前6時から午後6時までの間に1208発も城内に着弾したといいます。

 山川大蔵の妻・トセが落命したのもこの日でした。本丸にある照姫の部屋を警護していたトセは、「焼き玉押さえ」で爆発に巻き込まれ、命を落とします。「焼き玉押さえ」とは、着弾しても爆発していない砲弾を、水に浸した着物や布団で包み、爆発を防ぐというもの。ドラマでは八重が婦女子たちに指南していましたね。これは言うまでもなく極めて危険な仕事でしたが、八重のように武器を持って戦えない婦女子たちにとっては、お役に立てる大きな役割でした。彼女たちも男たち同様、みごとに死に際を飾ることを常に考え、もしものときは自分を介錯してくれる女性をあらかじめ決めていたといいます。

 追い詰められた会津兵は、9月15日、最後の大規模な攻撃を仕掛けます。一瀬要人萱野権兵衛らに率いられた部隊は、兵糧補給路を絶とうとする新政府軍と、城南の一ノ堰村で激突します。この「一ノ堰の戦い」と呼ばれる戦闘で、八重の父・山本権八が命を落とします。享年60歳。鶴ヶ城に白旗が上がるわずか5日前の9月17日のことでした。

 この一ノ堰の戦いの裏側で、実は降伏・開城の手はずが進められていました。一時は降伏・恭順を主張した西郷頼母を領外へ追放するほど強硬姿勢を崩さなかった藩首脳部でしたが、9月に入ってその姿勢は軟化し始め、さらに、先に降伏した米沢藩から降伏を促す書面が送られてきたことも相まって、とうとう、降伏論で固まります。そして、一ノ堰の戦いが行われていた15日には、秋月梯次郎手代木直右衛門が米沢藩の陣所に向かい、そこで米沢藩を介して新政府軍の陣所に護送され、19日、新政府参謀の板垣退助と会見、降伏交渉に入ります。

 降伏の嘆願を受けた板垣退助は、次のような条件を示します。

一、大旗に降伏の二文字を大書きし、追手門外に立てる。諸隊はこれを合図に発砲をやめる。それから一時間後に重役は礼服を着し、兵器を一切持たずに罷り出る。
二、肥後父子(容保・喜徳)、刀を小姓に持たせ、嘆願書を持参する。病気の場合は駕籠でよい。
三、肥後父子、出城の節は二十人ずつ随従、臣下は脱刀のこと。
四、城中の兵士は追々、出城苦しからず。
五、城中男幾人、女幾人、他邦脱走者幾人を、帳面に差し出すこと。
六、肥後家内へ随従の者は一人が五人、女子随従の儀は幾人でもよい。
七、十四歳以下と六十歳以上ならびに婦女子は城外に退いてよい。
八、男子は追々出城の上、猪苗代に移る。
九、城中滞在の患者は青木村(小田山西麓)に退く。


 そこには、これまで新政府軍が要求してきた松平容保斬首はありませんでした。もちろん誰もお咎め無しというわけにはいかないので、家老の萱野権兵衛がその責任を負って切腹するのですが(これは次週描かれるようですね)、会津藩にとっては、のめる条件を提示されたといえます。新政府軍にしてみれば、まだまだ基盤が不安定な新政府において、戦後の安定した政権運営のためにも、必要以上の遺恨を残したくないといった思いがあったかもしれませんし、あるいは、新政府軍も早く戦を終結させたかったのかもしれません。いずれにせよ、会津側にしてみれば、この寛大な条件をのまない理由はなく、20日に交渉がまとまり秋月らが帰城。22日に白旗が掲げられ、ここに、約1ヶ月続いた会津籠城戦は幕を閉じます。

 白旗の大きさは長さ三尺(約90cm)、幅二尺(約60cm)で、城中の女性たちが小布を縫い合わせて作ったものでした。その作業の指揮をとったのが照姫だったといいます。八重はその針仕事には加わっていなかったそうですが、晩年になっても、このときのことを思い出すと無念極まりない思いでいっぱいだったと語ったそうです。

 明日の夜は 何国(いずこ)の誰かながむらん なれし御城に残す月かげ
 (明日の夜になれば、慣れ親しんだこの城を照らす月のあかりを、どこの国の誰かが眺めるのだろう)


 降伏前夜に、八重が三の丸の白壁にかんざしで刻みこんだといわれている歌です。あるいは辞世の句のつもりだったのかもしれませんね。弟が死に、そしてまた父を失い、兄はいまだ生死不明で、城を追われ、明日の運命もしれず、無念と不安の思いでいっぱいだったのでしょうね。そんな心の叫びがひしひしと伝わってきます。こののち会津の人々にとっては、籠城戦以上に過酷な日々が訪れようとしていました。


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by sakanoueno-kumo | 2013-07-23 22:34 | 八重の桜 | Comments(5)  

Commented by 会津太郎丸 at 2013-07-31 19:40 x
八重の銅像には、あがさクリスマスの八重の応援歌「思い出の城、思い出の城」以外にないと確信しております!
たとえ、ほかの歌があったとしてもこの曲にかなわないと思いますのでよろしくお願いいたします! 全国の皆様よろしくお願いいたします。
Commented by sakanoueno-kumo at 2013-08-01 05:02
< 会津太郎丸さん

これで3度目、しつこいですね。
もし、また同じコメントが繰り返されるようであれば、過去に遡ってすべてのコメントを削除させていただきます。
Commented by heitaroh at 2013-08-04 15:23
西郷頼母は先日のNHKの歴史ドキュメントでは籠城末期に恭順意見が出てきた時に、自らの妻子が死んでいることもあって、「今更、今日淳とは何事か!」と徹底抗戦を唱えたがために、彼が居ると講話に支障があるということで城を追われた・・・となってましたが、これはどちらが本当なのですか?
私は、こちらの方が本当のような気がするのですが。
Commented by sakanoueno-kumo at 2013-08-07 22:41
< heitarohさん

レス遅くなってすみません。
コメント頂いていることはスマホでチェックしていたのですが、PCの前にゆっくり座る時間がなかなか取れずにいました。

NHKの歴史ドキュメントは観ていないのですが、そういう説もあるんですね。
私は、このドラマを観るにあたって、予習の意味で星亮一氏の著書をいくつか読んだのですが、氏は西郷頼母に対してかなり辛口な評価をしていて、西郷家の自刃は、謹慎の身である頼母の家族の入城はありえぬことだったため、藩執行部への当て擦りのため頼母自身が家族を自刃させたと述べていました。
それもどうかと思いましけどねぇ。
そんな星氏ですら、頼母が降伏恭順を主張していたという見解は同じでした。

いずれにせよ、開城の半月以上前の軍執行部の組織図にも頼母の名前はなく、籠城末期に彼にその種の発言権があったとは考えにくいように思いますけどね。
Commented by 未来太郎 at 2014-08-15 20:03 x
NHK非公認応援歌「ああ軍師官兵衛」がおもしろい!今聴くしかない!

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