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八重の桜 第31話「離縁のわけ」 ~挙藩流罪の斗南藩~

 明治2年(1869年)末に待望の御家再興となり、会津藩斗南藩として生まれ変わりましたが、23万石あった所領は3万石に大幅減封。藩士全員を移住させるのは到底無理なことでした。それでも、約半分の藩士が移り住んだといいますから、財政が成り立たないのは当然です。さらに、斗南藩の所領の大半を占める下北半島の地は、火山灰土の風雪厳しい不毛の土地で、実際には石高3万石にはまったく及ばず、せいぜい7千石程度だったといいます。

 斗南藩大惨事として幼君・松平容大をサポートしていた山川大蔵は、懸命に農地開墾施策を展開しますが、慣れない農業と寒冷な自然の前に生産高はあがらず、飢えと寒さで病死者が続出します。斗南藩士の一人でのちに陸軍大将にまでのぼる柴五郎は、後年この斗南への転封を「挙藩流罪」と表現しています。彼らにとっては、籠城戦より過酷な日々だったといえるかもしれません。会津戦争は、明治になってもまだ終わっていませんでした。

 このとき八重は、斗南には移住せずに会津に残り、その後、ドラマのとおり米沢に出稼ぎに行っていたようです。鶴ヶ城開城後に東京にいた夫の川崎尚之助は、かつては東京でそのまま暮らしたといわれていたそうですが、近年に発見された史料によれば、斗南藩士として下北半島に移住していたようですね。いずれにせよ、八重と尚之助はこれ以後、会うことはなかったようです。なぜ八重が尚之助について行かなかったかはわかりませんが、このとき離縁したのは八重と尚之助だけではなく、多くの会津藩士らが斗南に移住するにあたって家族との縁を切っていました。離縁された妻たちは、知縁を頼って出稼ぎに行くなど苦しい生活を強いられることになるのですが、それでも、挙藩流罪の地に夫と連れ添うよりマシだったのかもしれません。八重と尚之助の離縁の理由は、そうせざるを得なかったということでしょうね。

 そんな斗南藩も結局は明治4年(1871年)の廃藩置県によって斗南県となり、わずか2年足らずで消滅。その後、財力のある弘前県に吸収合併され、さらに周辺の5県と合併して、現在の青森県となります。これを機に会津藩士は全国に散っていき、斗南での藩再建の思いは、彼らの無念とともに歴史の闇に消えていきます。でも、全国に散った会津スピリッツは決して消えることはありませんでした。八重もまた、そのひとりだったといえます。

 その八重の兄・山本覚馬が生きているという知らせが八重のもとに届いたのは、廃藩置県が行われた明治4年のことでした。誰よりも兄をリスペクトしていた八重にとっては、これ以上の朗報はなかったでしょう。父と弟を失い、故郷を離れ、夫と離別し、そんな筆舌に尽くし難い喪失感のなか、兄の生存の知らせは、彼女の心に一筋の光明を差し込み、生きる希望を与えたであろうことは想像に難しくありません。生まれ育った家を失ったいま、兄を訪ねて京都に向かう決意を固めたのは当然だったでしょうね。

 ところが、覚馬の妻・うらは八重たちの京都行きに同行しませんでした。娘のみねを八重と母・佐久に預け、自らは会津にとどまる道を選択します。それは、離縁を意味していました。その理由はわかりませんが、おそらくドラマのとおりだったのでしょうね。当時、覚馬には身の回りの世話をする時恵という女性がいて、その時恵との間に娘も生まれていました。9年前、覚馬が松平容保京都守護職就任に付き添って上京して以来、あまりにも長い別居生活が招いた必然だったかもしれませんね。それも、ただの9年間ではなく、互いに死の淵を生きた別居生活だったわけですから・・・。

 その後のうらは、、会津に戻ったとも、仙台または青森に移り住んだともいわれますが、正確なことはわからないそうです。その後、娘のみねと会うことがあったかどうかも、定かではありません。


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by sakanoueno-kumo | 2013-08-07 22:21 | 八重の桜 | Trackback(1) | Comments(2)  

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Tracked from ショコラの日記帳・別館 at 2013-08-08 15:07
タイトル : 【八重の桜】第31回感想と視聴率「離縁のわけ」
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Commented by heitaroh at 2013-08-10 17:10
私は、川崎尚之助は会津籠城戦の際に行方不明になったと聞いていたんですが、それは間違いだったんですか?
ちなみに、私は山川大蔵と山川浩が同一人物だったということを今回初めて知りました(笑)。
Commented by sakanoueno-kumo at 2013-08-11 23:49
< heitarohさん

私は、川崎尚之助という人物名さえこのたびのドラマで初めて知りました(苦笑)。
川崎尚之助の戦後の消息は、貴兄がおっしゃるように不明だったようですが、このたび八重が注目されたことにより、川崎尚之助という人物名にも脚光があてられ、そうすっと、青森やら函館やらに埋もれていた斗南藩関係の史料のなかから尚之助の名前が見つかったそうで、昨年から今年にかけて急激に消息が詳らかになってきたようですね。
概ねドラマのとおりだったようです。
大河ドラマで脚光を浴びたことによって、今までの通説を覆す史料が見つかった例は少なくありません。
たかが大河ドラマ、されど大河ドラマです。

山川大蔵という人のことも、私はこれまで名前ぐらいしか知りませんでした。
ここで紹介している話は、すべてドラマのための予習で得た知識です(苦笑)。

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