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八重の桜 第34話「帰ってきた男」 ~新島襄と八重の出会い~

 前話で八重川崎尚之助の涙の別れが描かれたと思ったら、本話では早くも新島襄と急接近でしたね。なんとも節操のない話のようにも感じますが、実際にも、八重が襄と再婚したのは、尚之助の死から間もなくのことだったようです。偶然というには出来すぎの話ですね。八重の再婚は、兄・山本覚馬の後押しだったのでしょうが、尚之助の死も少なからず影響していたと考えても、無理はないかもしれません。

 ここまで当ブログでは、新島襄という人物にまったくふれてこなかったので、ここで少し、襄の人となりについて簡単に述べてみたいと思います。

 新島襄は、天保14年(1843年)に上州安中藩板倉家で祐筆を務める新島民治の長男として生まれます。幼名は七五三太(しめた)。八重の2歳上、尚之助の7歳下になります。七五三太という名前は、女子が4人続いたあとに生まれた待望の男子だったため、祖父が思わず「しめた!」と叫んだことから命名されたという説があるそうですが(ドラマでもそう言ってましたね)、いかがなものでしょうね。

 板倉家は三万石の小藩でしたが、歴とした譜代大名でした。その江戸屋敷で育った襄は、黒船来航から3年後の安政3年(1856年)に元服し、藩の命を受けて蘭学を学び始めます。オランダ語を学ぶことで海外情勢への関心を深めた襄は、さらに万延元年(1860年)からは幕府の軍艦教授所航海術を学び、さらにさらに、文久3年(1863年)には英語を学びはじめます。絵に描いたような秀才君だったわけですね。

 やがて襄は、英語を学ぶなかで聖書にふれ、アメリカに憧れを抱くようになります。そして元治元年(1864年)6月14日、箱館に停泊していたアメリカの商船ベルリン号に密かに乗り込み、日本を出国しました。言うまでもなく、当時、海外渡航重罪でしたが、それでも、海外への憧れの気持ちを抑えられなかったのでしょうね。このあたりの行動力は、ただの秀才君ではなかったようです。

 箱館を出てから約1年が経過した慶応元年(1865年)6月、憧れのアメリカの地に降り立った襄は、密航船の船主夫妻の援助を受けてフィリップス高校に入学します。その在学中に洗礼を受け、卒業後はアーモスト大学に入学し、理学士の称号を得ます。これは日本人初の学士の学位取得だったそうです。その後、アンドーヴァー神学校に入学し、キリスト教伝道のための教育を受け、学業を終えたのは明治7年(1874年)のことでした。実に充実した9年間だったわけですが、何の後ろ盾もない密入国者の襄が、これほどまでの充実したアメリカでの生活を過ごせたのは、熱心なキリスト教の信仰心と、彼の人柄によるものだったでしょうね。やはり、ただの秀才君ではありません。

 襄が学業三昧の生活を送っていた頃、日本では幕府が倒れ、明治政府が誕生していました。その明治政府の首脳たちで形成された使節団(岩倉使節団)が明治5年(1874年)にアメリカを訪れ、襄は彼らの通訳を務めることになります。使節団に同行してアメリカだけでなくヨーロッパ諸国への見聞も広げた襄は、その間、副使の木戸孝允からの厚い信任を得ます。このとき得た人脈が、のちの同志社創立の際に大いに役立ちます。

 襄が帰国したのは、明治7年(1874年)11月のことでした。その目的は、宣教師の一人として日本でキリスト教の布教活動を行うためです。江戸時代より禁止されていたキリスト教は解禁となり、日本語を話せる宣教師が求められていました。それと、もうひとつの目的が、キリスト教と近代科学を教える学校の創立だったのです。当時、大阪にいた木戸は、襄の学校創立に全面的にバックアップすることを約束してくれますが、大阪では思うようにことが運べず、京都府大惨事の槙村正直の後ろ盾でもあった木戸は、襄に槙村を紹介します。そこで、槇村の知恵袋的存在だった山本覚馬と知り合うんですね。かねてから西洋文明に明るく、キリスト教にも好意的だった覚馬と襄が意気投合したのは、当然のことだったといえるでしょうか。その後、覚馬は襄の学校創立に熱心に協力します。

 その覚馬の妹である八重と結婚することになる襄ですが、二人が最初に出会ったのは、覚馬や槇村の紹介ではなく、ドラマにあったように、八重が聖書を習いに通っていた宣教師・ゴードンの家だったようです。ある日、八重がいつものようにゴードン宅を訪れたところ、玄関で靴を磨いていた一人の男がいました。その男こそ襄だったわけですが、八重は彼をただのボーイだと思い、別に挨拶もしなかったそうです。あとでゴードン夫人から襄を紹介されて、ボーイではなかったことを知るわけですが、これが、二人の最初の出会いだったと、後年の八重が語っています。ってか、たとえボーイでも挨拶ぐらいしろよ・・・と、思わなくもないですが(笑)。

 八重が井戸の上に敷いた板の上に座っていたシーンがありましたが、あれも実話だったようで、後年の襄が語っていたエピソードだそうです。井戸の上に座れば確かに涼しいでしょうが、板が折れたら無事ではすみません。襄が覚馬にそのことを話したところ、「どうも妹は大胆なことをして仕方がない」と嘆いたとか。八重は兄のことを心からリスペクトしていましたが、だからといって兄のいうことをすべて聞いていたわけでもなかったようですね。覚馬が八重の行動に手を焼いていた様子がうかがえるエピソードです。

 そんな八重と襄が結ばれるのは明治9年(1876年)1月のこと。二人を結婚させたのは兄・覚馬だったでしょうが、結婚前のエピソードなどがこうして残っているところから見ても、決してさせられた結婚ではなかったようですね。生来の秀才君と根っからのお転婆娘の二人。一見、まったく釣り合いそうもない気がする二人ですが、かたや国禁を犯しての密航を実行し、かたや機関銃を肩に男性に混じって戦うという、大胆不敵という点においていえば、似たもの同士だったのかもしれませんね。二人の接近は必然だったのかもしれません。ちょっと、尚之助が気の毒な気がしないでもないですが・・・。


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by sakanoueno-kumo | 2013-08-29 22:55 | 八重の桜 | Trackback(1) | Comments(2)  

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「帰ってきた男」 第34回の視聴率は、前回の15.9%より下がって、13.4%で... more
Commented by 高木一優 at 2013-08-30 16:55 x
同志社大学がどうして薩摩藩邸跡にあるのか不思議に思っていたんですが、薩摩-会津-キリスト教という奇妙なつながりがあったんだなあ、と妙に感心してしまいます。
昔、友人に連れられて同志社大学のアーモスト寮へ行った事があります。この名称も新島襄の出身校の名前だったんですね。レンガ造りの洋館にいまでも学生たちが住んでいて、こんなところで学生生活を送れるなんてうらやましかったです。
Commented by sakanoueno-kumo at 2013-09-04 22:59
< 高木一優さん

>薩摩-会津-キリスト教という奇妙なつながりがあったんだなあ

私も同じことを思っていました。
歴史を紐解くと、そこには必ずドラマがあるんですね。

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