八重の桜 第36話「同志の誓い」 ~新島襄と八重の結婚~
「亭主が東を向けと命令すれば三年でも東を向いている東洋風の婦人は御免です」と。
いうまでもなく当時は、夫に従順で自己主張をしないのが女性の美徳とされていました。いわゆる「三歩下がって夫の影を踏まず」ってやつですね。男尊女卑と漢字で書けば、ずいぶんと女性が虐げられて苦しめられていたように思いがちですが、当時の女性にしてみれば、それが当たり前だったわけで、とくに虐げられている思いはなく、むしろ、自己主張をする自立した女性は、男性からだけではなく、女性からも白眼視されていました。しかし、襄は慎ましやかな日本女性よりも、自己主張をする女性らしからぬ女性を妻として望んでいました。もちろん、これが西洋での暮らしからきた発想であったことは、いうまでもありません。
襄の望みを聞いた槇村が、山本覚馬の妹である八重を思い出したであろうことは想像に難しくありませんね。槇村は、すぐさま八重の存在を襄に告げたそうです。女紅場のことで次々に難しい問題を持ち込んできたり、何度となく補助金の交付を陳情してくる八重には、槇村自身ほとほと手を焼いていたようです。そんな八重こそ、襄の望む女性像にピッタリだと。その分析、間違ってはいなかったようですね。
かくして、明治8年(1875年)10月に婚約した襄と八重は、翌年の1月3日に結婚式をあげます。ドラマでも言っていましたが、日本で初めてのキリスト教式の結婚式だったそうです。しかし、そこまでの道のりは決して平らなものではありませんでした。
覚馬の強力なバックアップのもと学校設立に奔走していた襄でしたが、キリスト教主義の学校設立への風当たりは想像以上に強く、とくに仏教徒を中心とした猛烈な反対運動が起こります。全国の寺院の総本山が集まる京都に、つい数年前まで禁止されていた耶蘇教の学校を設立しようというのだから、当然のことだったでしょうね。京都にキリスト教の学校をつくるなんて、当時、比叡山を琵琶湖に投げ込むくらい不可能といわれたそうです。そんな世論のなか、当初は好意的だったはずの槇村が次第に手のひらを返し始め、学校設立を許可するにあたって、聖書を教えないという条件を提示します。京都府大惨事という立場にありながらも、京都で仏教徒を敵に回すと、何かと仕事がやりにくくなるといった理由があったんでしょうね。槇村としては、やむを得ない条件だったのでしょうが、襄にしてみれば、はしごを外された形となります。
そして、その煽りは八重のもとにも降りかかります。襄と婚約した直後、八重は女紅場を解雇処分となりました。これも槇村の仕業だったようです。八重が女紅場でキリスト教を教えることで、親たちが娘を退学させてしまうのではと危惧したようです。生徒に聖書を配ったことがきっかけだったようですね。たしかに保護者からの反発は激しかったようで、これも、槇村にとってはやむを得ない処分だったのかもしれません。4年ほど勤務していた女紅場を思わぬかたちで追われることになった八重でしたが、このとき八重は襄にこういったそうです。
「いいのよ、これで福音の真理を学ぶ時間がもっととれるわ」と。
そんな八重のことを、襄はアメリカの母と慕うハーディー夫人に宛てた手紙でこう評しています。
「彼女はいくぶん目の不自由な兄に似ています。あることをなすのが自分の務めだといったん確信すると、もう誰をも恐れません。」
この一件で襄は、あらためて、八重こそ自分の妻にふさわしいと思ったかもしれませんね。さらに襄は、同夫人への手紙のなかでこう書いています。
「彼女は決して美人ではありません。しかし、私が彼女について知っているのは、美しい行いをする人だということです。私にはそれで十分です」
(She is not handsome at all She is a person who does handsome)
この手紙から、八重の代名詞である「ハンサム・ウーマン」という言葉が生まれたそうです。
八重と襄は、夫婦である前から、まさしく「同志」だったんですね。
ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2013-09-09 17:55 | 八重の桜 | Trackback(1) | Comments(0)
