八重の桜 第38話「西南戦争」 その2 ~日本史上最後の内戦~
鹿児島県では、県令以下の県庁の役人や、区長、戸長の名称は中央政府が定めた名称を用いていましたが、県令・大山綱良以下の役人には一人も県外人を入れず、すべて私学校とその分校の幹部を就かせて、県政は中央政府の法令には一切従わず、私学校の指導で行われていました。県下の租税はいっさい中央にあげず、県下では秩禄処分もなく、太陽暦も採用せず旧暦を守り、士族は相変わらず刀を帯び、ひとたび西郷の命令が下ればただちに戦闘状態に入れるよう組織され、訓練されていました。つまりこれは、日本国内において事実上中央政府から独立した政権、鹿児島国だったといっていいでしょう。そしてそのなかで、西郷自身はなんの役職にも就かず、それらを超越した最高権威として君臨していました。
彼らは、熊本・秋月・萩の乱にも、なお自重して動きませんでした。おそらく、西郷が軽挙を抑えていたのでしょう。しかし、中央の政権に一切従わない彼らを、政府は放っておくわけにはいきませんでした。政府・内務卿の大久保利通は、内乱を避けるべく鹿児島県士族に限って特別の優遇をしてきましたが、それに対する木戸孝允らの反対は強く、鹿児島県のみを特殊あつかいすることに対して、大久保を避難する声が高まります。さすがの大久保もこの声を無視するわけにはいきませんでした。
明治9年(1876年)12月末、大久保は腹心の大警視・川路利良に依頼し、十数人の警察官を帰省という名目で鹿児島に送り、スパイ活動及び私学校の解体活動をさせます。さらに、鹿児島にたくわえていた武器・弾薬の一部を汽船で大阪に運ばせまました。これが私学校党を大いに刺激。明治10年(1877年)1月29日夜から、火薬局および海軍省の造船所を襲い、武器・弾薬を奪い取ります。そして2月3日、スパイ活動をしていた政府警察官を捕らえ、彼らが政府の密命を受けて、私学校党をつぶし、西郷を暗殺する計画であったことを自白させます。本当にそのような任務が与えられていたかは、いまとなってはわかりません。あるいは決起するためにでっち上げた作り話だったかもしれません。いずれにせよ、ここまでくれば、もはや西郷の力を持ってしても、彼らを抑えられなくなっていました。決起日は2月17日、兵力は1万3000人。これまでの叛乱とは規模が違います。こうして、近代日本最大、そして日本史上最後の内戦、世に云う西南戦争が起こりました。
ここでは、戦いの詳細は省きますが、結果的に西郷率いる私学校党が敗れるのは周知のところでしょう。決起から7ヶ月後の9月24日、鹿児島は城山にて西郷は自刃します。ドラマで描かれていたとおり、股間を撃たれて歩けなくなった西郷は、肩を負っていて別府晋介に、「晋どん、もうここらでよか」と語り、その場で別府に自身の首を討たせました。享年50歳。その後、反乱軍幹部たちはめいめいに戦死をとげ、ここに、わが国最後の内戦は終わります。
なぜ、西郷はこのような無謀な反政府軍の首領に身をおいたのでしょうか。おそらく西郷は、わずかに九州の一角の力を持って中央政府に勝てるとは思っていなかったでしょう。ただ、全国各地で燻っていた不平士族の不満の火種をなんとか消したいという思いはあったかもしれません。彼は、挙兵を迫る篠原国幹や桐野利秋らに対して、「おいの命は諸君にあずけ申す、存分にするがよい」と言ったといいます。西郷は彼自身が不平士族の頂点に立って滅びることで、彼自身の作った維新の総仕上げを行ったのでしょうか。あるいは、中央政府にいるマブダチ・大久保への援護射撃?・・・どれもこれも、結果を知っている後世から見たドラマチックな解釈でしょうか?
「おいが、みな抱いていく」
ドラマ中の西郷の台詞ですが、まさしくこの境地だったのかもしれません。
ナレーションはいいます。
内戦は深い傷を残した。 しかし、そこから立ち上がり、苦しみの先に未来を見つめた人々が、やがて新しい国づくりに向けて歩き出してゆく。
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by sakanoueno-kumo | 2013-09-25 21:35 | 八重の桜 | Trackback | Comments(2)
たぶん、西郷を語る上で、征韓論と共にもっとも意見の分かれるところでしょうね。
わたしは、発想が小説頭ですので、どうしてもドラマチックな説を信じたくなります(苦笑)。
反政府軍の首領が死後たった20年ほどで銅像になったという話は、世界中でも類を見ないそうですね(一方、官軍のヘッドだった大久保の銅像が鹿児島に建つまで、死後100年かかりましたから)。
その点からも、当時のひとたちも、ただの稚拙な暴挙とは考えていなかったのでしょうね。