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八重の桜 第40話「妻のはったり」 ~自責の杖事件~

 明治13年(1880年)春、同志社英学校でひと悶着が起きます。それは、学生たちによる授業ボイコットでした。ことの発端は、当時、学力別に分かれていた2クラスを、学校側が一方的に合併しようとしたことにありました。開校して5年が経とうとしていた同志社英学校でしたが、耶蘇教(キリスト教)を教える学校への風当たりはまだまだ厳しく、入学生の確保もままならない状態でした。そんな状況から、当時の同志社では本来の9月の入学にこだわらず、途中入学も認めていました。学校を経営していく上ではやむを得ない策だったのでしょう。ただ、当然のことながら、正規入学者と途中入学者では学力差が生じます。そのため、学生を上級組下級組に分けて授業を行っていました。

 しかし、ただでさえ学生の数が少ないなかで、クラスを分けて授業を行うのは効率的ではないとの意見が教師会で上がり、合理化を図るためクラスの合併を決定します。これに反発したのは上級組の面々。下級組のレベルに合わせた授業など御免だ!・・・と言わんばかりに、授業をボイコットするという抗議行動に出ます。より高いレベルを求めていた学生らにしてみれば、当然の主張だったかもしれませんね。この抗議行動の中心的存在だったのが、徳富蘇峰、蘆花兄弟でした。

 ボイコット発生時、出張により不在だった校長の新島襄は、戻ってくるなり懸命に学生たちを説得します。はじめは頑なだった学生たちでしたが、襄の熱意に心を動かされてか、間もなくボイコットをやめ、騒動は一応の決着をみます。しかし、これにて一件落着とはいきませんでした。というのも、ボイコットした学生たちを処罰せよとの意見が、同じ学生のなかからあがったのです。その主張の是非はともかく、学生が授業を無断欠席するというのは、同志社の校則違反でした。規則を破った学生を処罰するのは、当然のことです。

 襄は悩みます。該当の学生たちに罰を与えれば、ただでさえ不満を募らせている彼らのことだから、退学しないとも限らない。しかし、これを大目にみれば、校内の秩序が保てない。悩みに悩んだ末に襄は、4月13日の朝、礼拝で壇上に立ちます。そこで彼は、集まった学生たちを前にしてこう言ったそうです。
 「罪は教師にも生徒諸君にもない。全責任は校長の私にあります。したがって校長である私は、その罪人を罰します。」
 そう話し終わると襄は、右手に持っていたを振り上げ、自身の左手を叩き始めたそうです。何度も何度も激しく叩き続けたため、襄の左手は赤く腫れあがり(おそらく骨折してたでしょうね)、杖が折れてもなお叩き続ける襄の姿に、学生たちは心を動かされ、涙ながらに襄の自責を制止したそうです。有名な「自責の杖」事件ですね。

 多少の脚色はあるかもしれませんが、襄の自責に感銘した学生が折れた杖を宝物のように保管していたという話からも、だいたいは実話なんでしょうね。少々芝居がかった感がなきにしもあらずな襄の行動ですが、それでも、腫れ上がってもなお叩き続けるなど、常人にできることではありません。新島襄という人は、実はたいへん激情家だったのかもしれませんね。教え子たちの罪は、師である自分の罪・・・口で言うのは簡単ですが、なかなか実行できることではありません。自分のミスは部下の責任、自身の犯した罪は秘書がやったこと、などなど、現代の指導者たちとは正反対です。「指導」という名目で、教え子が自殺するまで理不尽な体罰を与えていたどこかの体育会系の教師とも、えら違いですね。この1世紀ほどで、指導者の質はすっかり低下してしまったようです。襄を真似ろとは言いませんが、かつてはこんな指導者がいたということを、とくに今の「先生」と呼ばれる職業の人は、知っておいてほしいものです。


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by sakanoueno-kumo | 2013-10-08 22:21 | 八重の桜 | Trackback | Comments(0)

 

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