年の瀬の阿波国紀行備忘録 その2 「徳島城跡」
天正13(1585)年、豊臣秀吉の四国征伐で勲功をあげた蜂須賀正勝(小六)が、阿波国19万石を与えられますが、入国してまもなく、高齢を理由に嗣子の家政に家督を譲り、その家政が徳島城を築城したました。
その後、蜂須賀家は家政の嗣子・至鎮の大阪の陣での功績により淡路国も加増され、以後、江戸時代を通じて14代に渡ってここ徳島城に居城し、阿波国・淡路国の両国26万石を支配します。

上の写真は大手門跡です。

そしてこちらは南麓曲輪。
石垣隅に隅櫓、橋向かいの石垣上に旗櫓があったそうです。

上の写真は鷲の門。
この鷲の門は、城の巽(南東の方向)に位置する表口見付の門で、説明看板によると、その造りは脇戸付きの薬医門で、幕府に鷲を飼うからと申し立て建設したところから鷲の門の名があると伝えられているそうです。
当時の門は、昭和20(1945)年の空襲によって焼失してしまったそうで、現在のものは、平成元(1989)年に復元されたものだそうです。

徳島城は、標高61mの城山に建つ平山城でしたが、明治6(1873)年のた廃城令によって存城処分となり、その後、明治8(1875)年に建築物のすべてが取り壊され、いまでは石垣のみが当時の面影を偲ばせています。

徳島城の石垣は、「阿波の青石」として有名な緑色片岩を用いた「緑色の石垣」として知られているそうです。
偏平に割れ、城郭のような 大規模な石垣を築くのに適しているとは言えないものだそうです。

天守跡です・・・といっても、何もないただの原っぱですけどね(笑)。

城山から城下を見渡した写真です。
標高たった61mとはいえ、山頂まで登るのは、おじさんには結構な運動でした。

城山の麓の御殿跡には、蜂須賀家政の銅像が建てられていました。
なぜ家祖の小六(正勝)ではなく家政なのかと思ったのですが、考えてみれば徳島城を築城したのは家政であって、家祖は正勝でも藩祖は家政なんですね。

でも、説明看板によると、戦前は、野太刀と長槍を持った甲冑姿の小六の銅像が建っていたそうですが、戦時中に供出されてしまったそうです。
で、昭和40(1965)年に、この家政像に生まれ変わったそうで・・・。
だったら、なんで小六にしなかったんでしょうね。
さて、だらだらと思いついたまま綴ってきましたが、そんなわけで、そろそろ出張ついでの徳島城址レポートを終わります。
このあと徳島ラーメンを食べて、仕事に戻ったわたしでした。

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by sakanoueno-kumo | 2014-01-23 22:56 | 徳島の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)
今度、行ってみます。
わたしも、観光で行ったことあるのは大歩危小歩危とかずら橋ぐらいです(それも、高知へ向かう途中に立ち寄ったもので・・・)。
今回も、たまたま出張の合間に時間が出来たから行ったまでで・・・。
四国といえば、行きたいところが多いのは高知と愛媛で、徳島というと、どうしても影が薄いですよね。
徳島の人には怒られるかもしれませんが、阿波踊り以外に何があるの?・・・てな感じで・・・。