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軍師官兵衛 第4話「新しき門出」 ~官兵衛と光の結婚~

 黒田官兵衛が結婚した年は、はっきりわかっていません。官兵衛の嫡男である松寿丸(のちの長政)が誕生したのが永禄11(1568)年12月3日とあるので、おそらく、結婚したのは永禄10(1567)年から翌年の初頭あたりと考えられています。お相手は播磨国の志方城主である櫛橋伊定の息女・。読み方は「テル」が通説でしたが、つい最近の発表で、晩年の彼女自身が建立した菩提寺である圓應寺(福岡)の蔵書から、「ミツ」とルビの記された古文書が発見されたそうで、物議を醸しているそうです。ドラマでは、これまでの通説どおり「てる姫」を採用したようですね。

 光の実家である櫛橋氏とはどんな家かというと、もとは相模国大住郡櫛橋郷に土着していたようですが、鎌倉時代に播磨国に移ってきたといわれているそうで、南北朝期に、守護となった赤松氏の被官となったものと考えられています。しかし、戦国時代になって赤松氏が衰退し始めると、櫛橋氏はその配下から自立し、ドラマの時代には、志方城を拠点として播磨国に威勢を誇っていました。お隣の姫路城代である黒田氏にとって、地元の有力者である櫛橋氏の娘を娶ることは、大いにメリットがあったんですね。そしてそれは、一方の櫛橋氏側にとっても同じことでした。一説には、光の父・伊定が官兵衛の人物を見込んで、娘を嫁がせたともいいます。また、二人の結婚に際して伊定は、櫛橋家に代々伝わる具足を官兵衛に贈っています。ドラマにあったような、櫛橋家が黒田家を蔑んで見ていたなんてことは、おそらくなかったんじゃないでしょうか。

 光は、才色兼備のすばらしい女性だったといいます。また、体格は官兵衛より大きかったとか(官兵衛が小柄だったこともあるでしょうが)。司馬遼太郎氏の小説『播磨灘物語』では、婚礼の日にわが嫁の姿を初めてみた官兵衛が、その背の高さに驚いてしまいます(同小説では、妻の名前は「お悠」となっています)。婚儀では、官兵衛の座席に円座を3枚重ねて、なんとかつり合いがとれた・・・と。あまりの背の高さに戸惑っていた官兵衛は、その初夜が明けた朝、「たしかに、女だった」と呟きます(笑)。なんとも失礼な話ですね(笑)。しかし、婚儀が終わってから、あらためてしみじみと妻の顔を見て、「わが嫁は、あのように美しかったのか」と見入るシーンもあります。もちろん、これらはすべて司馬氏のフィクションの光(お悠)像で、実際の人物像はわかりません。ただ、官兵衛は生涯、側室を迎えておらず、ふたりの夫婦仲も仲睦まじいものだったといいます。たぶん、美しい女性ではあったのでしょうね。

 結婚して間もなく、官兵衛は父・職隆から家督を譲られ、小寺家の家老職も継ぎます。官兵衛、22~23歳の頃でした。職隆もまだ40歳代半ば。とくに病気がちでもなかった職隆の隠居の申し出に、当初は主の小寺政職も考えなおすよう説得しますが、職隆の意思は固かったようです。なぜ、職隆が早々に隠居したのかはわかりませんが、あるいはドラマのような理由があったのかもしれませんね。だとすれば、後年の官兵衛が早々に隠居した経緯も、父を見習った選択だったのだったのかもしれません。子は知らず知らずのうちに、親を手本にしているということでしょうか。さもありなん・・・ですね。


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by sakanoueno-kumo | 2014-01-28 18:48 | 軍師官兵衛 | Trackback(2) | Comments(4)  

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Commented by heitaroh at 2014-01-28 19:10
当時はあのくらいの年齢で家督を譲るのは普通じゃなかったんですか?人の寿命が短かったし、戦死、暗殺の危険性もあったことを考えれば。
戦乱がなかった江戸時代も武士は40過ぎたら息子に家督を譲ってお迎えが来るのを待つというのが普通たったそうですし。
Commented by sakanoueno-kumo at 2014-01-29 20:22
< heitarohさん

おそらく一般的にはそうだったのでしょうけど、それもケースバイケースだったのかなあと。
隠居を申し出た職隆を、主の小寺政職が思いとどまるよう説得したという逸話を読んで、そう思った次第です。
Commented by 田中かわず at 2014-01-31 17:06 x
 この記事にトラックバックさせていただきました。
 確かに「光」は「テル」より「ミツ」のほうが似合っているかも。
 ポチッと応援。
Commented by sakanoueno-kumo at 2014-02-03 23:39
< 田中かわずさん

コメント&TBありがとうございます。
また、応援クリックも賜り忝うござる(笑)。

実際のところ、戦国時代の女性の名前なんて、正確にわかっているほうが少ないんですよね。
光にしても、テルとかミツとかいう以前に、「光」という名だったかどうかも定かではないんですね。
院号の照福院や、雅号の幸圓は間違いないようですが・・・。

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