軍師官兵衛 第4話「新しき門出」 ~官兵衛と光の結婚~
光の実家である櫛橋氏とはどんな家かというと、もとは相模国大住郡櫛橋郷に土着していたようですが、鎌倉時代に播磨国に移ってきたといわれているそうで、南北朝期に、守護となった赤松氏の被官となったものと考えられています。しかし、戦国時代になって赤松氏が衰退し始めると、櫛橋氏はその配下から自立し、ドラマの時代には、志方城を拠点として播磨国に威勢を誇っていました。お隣の姫路城代である黒田氏にとって、地元の有力者である櫛橋氏の娘を娶ることは、大いにメリットがあったんですね。そしてそれは、一方の櫛橋氏側にとっても同じことでした。一説には、光の父・伊定が官兵衛の人物を見込んで、娘を嫁がせたともいいます。また、二人の結婚に際して伊定は、櫛橋家に代々伝わる甲と具足を官兵衛に贈っています。ドラマにあったような、櫛橋家が黒田家を蔑んで見ていたなんてことは、おそらくなかったんじゃないでしょうか。
光は、才色兼備のすばらしい女性だったといいます。また、体格は官兵衛より大きかったとか(官兵衛が小柄だったこともあるでしょうが)。司馬遼太郎氏の小説『播磨灘物語』では、婚礼の日にわが嫁の姿を初めてみた官兵衛が、その背の高さに驚いてしまいます(同小説では、妻の名前は「お悠」となっています)。婚儀では、官兵衛の座席に円座を3枚重ねて、なんとかつり合いがとれた・・・と。あまりの背の高さに戸惑っていた官兵衛は、その初夜が明けた朝、「たしかに、女だった」と呟きます(笑)。なんとも失礼な話ですね(笑)。しかし、婚儀が終わってから、あらためてしみじみと妻の顔を見て、「わが嫁は、あのように美しかったのか」と見入るシーンもあります。もちろん、これらはすべて司馬氏のフィクションの光(お悠)像で、実際の人物像はわかりません。ただ、官兵衛は生涯、側室を迎えておらず、ふたりの夫婦仲も仲睦まじいものだったといいます。たぶん、美しい女性ではあったのでしょうね。
結婚して間もなく、官兵衛は父・職隆から家督を譲られ、小寺家の家老職も継ぎます。官兵衛、22~23歳の頃でした。職隆もまだ40歳代半ば。とくに病気がちでもなかった職隆の隠居の申し出に、当初は主の小寺政職も考えなおすよう説得しますが、職隆の意思は固かったようです。なぜ、職隆が早々に隠居したのかはわかりませんが、あるいはドラマのような理由があったのかもしれませんね。だとすれば、後年の官兵衛が早々に隠居した経緯も、父を見習った選択だったのだったのかもしれません。子は知らず知らずのうちに、親を手本にしているということでしょうか。さもありなん・・・ですね。
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by sakanoueno-kumo | 2014-01-28 18:48 | 軍師官兵衛 | Trackback(2) | Comments(4)
さっちゃん:昨日、はじめて「軍師官兵衛」を観たけど、結構おもしろかったやん。 かわず:へ、どんなとこが? さっちゃん:あの赤鼻のお殿さん。なんてったっけ? 演じてるんは片岡鶴太郎やろ。なかなか愛嬌があってよかった。それに足川義昭。自信なさげにいつも明智光秀の方に視線をおくってるんよね。その様子がいかにも薄っぺらな将軍様って感じでよかったわあ。 明智光秀といえば、切れ者の学者風...... more
戦乱がなかった江戸時代も武士は40過ぎたら息子に家督を譲ってお迎えが来るのを待つというのが普通たったそうですし。
おそらく一般的にはそうだったのでしょうけど、それもケースバイケースだったのかなあと。
隠居を申し出た職隆を、主の小寺政職が思いとどまるよう説得したという逸話を読んで、そう思った次第です。
コメント&TBありがとうございます。
また、応援クリックも賜り忝うござる(笑)。
実際のところ、戦国時代の女性の名前なんて、正確にわかっているほうが少ないんですよね。
光にしても、テルとかミツとかいう以前に、「光」という名だったかどうかも定かではないんですね。
院号の照福院や、雅号の幸圓は間違いないようですが・・・。