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軍師官兵衛 第12話「人質松寿丸」 ~官兵衛、苦渋の決断~

 天正5年(1577年)9月、織田信長は播磨国に羽柴秀吉軍を派兵するにあたって、黒田官兵衛宛に書状を送ります。その内容は、備前国に進発していまだ去就を決めかねている国衆を味方に引き込むこと。そして、織田氏傘下に入ると表明した各領主たちから、人質を差し出させるよう命じたものでした。同盟関係を結ぶ際に人質交換を行うのは当時の武家のならい。とくに厳しい要求というわけではありません。人質であるからには、もし、裏切れば人質の命は保証しないという意味ですが、同盟関係さえうまくいっていれば、人質といっても粗略な扱いを受けることはなく、むしろ、客人のように手厚く保護されます。この場合、織田氏と運命を共にする覚悟さえ出来ていれば、さほど大きな問題ではないわけです。

 ところが、官兵衛の主君・小寺政職は、嫡男の氏職を人質として差し出すことに難色を示します。政職には他にも子どもはいたようですが、そのほとんどが夭折し、このときは氏職だけでした。たったひとりの継嗣を人質に出したくない親心はわからなくもないですが、理由はそんなセンチメンタルなものではなかったようです。その理由は、ドラマのように氏職は生来病弱で、人質としての役目を果たすのは不可能だった・・・というものや、また別の説では、氏職は愚鈍で評判が高く(軽い知的障害があったとも)、もし彼を人質として差し出せば、かえって小寺家に対する心証を悪くするおそれがあると考えたため・・・とも言われます。他にも、政職はすでにこの頃から毛利氏への寝返りを考えていたため・・・という見方もあるようですね。いずれにせよ、このままでは信長に二心ありと疑われかねません。困った末に官兵衛が出した結論は、我が子、松寿丸(のちの黒田長政)を代わりに人質として差し出すというものでした。

 松寿丸はこのとき10歳。氏職と同じく、黒田家にとって松寿丸は一粒種でした。そんな愛息子を人質に出すのは苦渋の決断だったに違いありません。しかも、官兵衛は小寺家の家老に過ぎませんから、織田家との同盟関係を今後も良好に保っていくか否かも、最終的には主君である政職しだいということになります。

光 「謀反を起こせば松永殿のように人質になった子は殺されてしまいます。」
官兵衛 「わしは謀反など起こさぬ。」
光 「違います! 私が案じているのは御着の殿です。あのお方がもし信長様を裏切れば、松寿は殺されてしまいます。」

 まさしく、の台詞どおりですね。政職にしてみれば、自身の腹を痛めていない以上、織田家と毛利家の間で半身の体勢をとれるわけです。裏切ったって、殺されるのは家老の息子ですからね。そんななかで官兵衛が松寿丸を人質に出す決断をしたのは、政職をそれだけ信頼していたのか、あるいは、政職を抑える自信があったのか、いずれにせよ、万策尽きたうえの、やむを得ない選択だったのでしょう。

 ただ、信長がよくそれで許してくれましたよね。
 「お主のせがれを預かって織田に何の得がある?小寺は織田に忠節を誓うつもりはないのだな?それゆえ家老の子を人質に出すのであろう。」
 と言ったのは、信長の嫡男・信忠の台詞ですが、まさしく、そう思われても仕方がないでしょう。あるいは、信長は端から小寺家など眼中になく、官兵衛さえ取り込めればよかったのでしょうか? ただ、結果的には、黒田家はこのおかげで織田家、羽柴家と太いパイプを持つことになったわけで、もし、小寺家から人質が出されていれば、のちに政職が毛利方に寝返ることもなかったかもしれませんし、そうなると、官兵衛のその後の人生も、まったく違ったものだったかもしれません。大河ドラマの主役にもなってなかったかもしれませんね(笑)。そう思えば、あるいはすべて官兵衛が描いた策だった?・・・なんて考えたくなりますね。まあ、それは結果を知っている後世の穿った見方で、このときの官兵衛は、ただただ純粋に主家を守るための、身を切る決断だったに違いありません。


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by sakanoueno-kumo | 2014-03-25 21:57 | 軍師官兵衛 | Trackback | Comments(2)  

Commented by heitaroh at 2014-03-25 23:28
確かに、後世の我々は結果を知ってますから良いですけど、当事者はたまったものではなかったでしょうね。あるいは、逆にああいうことになると思ってないから出せるものなのか。でも、やっぱ、当時の武士というのは大変な覚悟が求められたことには違いないでしょうね。
Commented by sakanoueno-kumo at 2014-03-26 21:55
< heitarohさん

仰るとおりで、現代の私たちは、命を賭けると口では言っても、命まで取られることはまずありませんが(ヤ◯ザでもないかぎり)、当時の武士たちは、頻繁に命を賭けた決断を求められるわけで・・・。
「首をかけて」なんて言葉がいまでも使われますが、当時はホントに首を落とされたわけですからね。
物事を決断するときの覚悟は、現代の私たちの覚悟とはレベルが違いますよね。

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