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軍師官兵衛 第15話「播磨分裂」 ~加古川評定~

 西播磨の福原城上月城を落とした羽柴秀吉は、年が明けた天正6(1578)年2月、播磨国の領主たちを一同に集めて評定を開きます。会場となった加古川城の城主は、のちに賤ヶ岳七本槍のひとりとなる糟谷武則で、三木城主の別所氏に仕える身でありながら、早くから秀吉とよしみを通じていたと言わる人物です。この評定の目的は、今後の中国攻略に向けての道筋を立てるというものでしたが、真の目的は、播磨国領主たちの去就を今一度確認して、反毛利の結束を固めるといった意図も込められていたのでしょうね。おそろく黒田官兵衛も、各地の長たちを集める工作に尽力したに違いありません。しかし、結果的にこの評定は、失敗に終わってしまいます。

 そのキーマンとなったのが、播磨国最大の勢力を誇る別所氏でした。別所氏は15世紀後半から三木城に拠点を置く名家で、城主は若き別所長治。叔父の別所吉親(賀相)別所重棟を後見人に12歳という若さで当主となった長治も、このとき既に20歳となっていましたが、いまだ叔父たちの発言力が強く残っていたようです。この二人の叔父が、かねてから対立関係にあったようですね。城内でそれぞれの派閥をつくり、政務のことごとくを対立していたといいます。その延長線上からか、兄の賀相は毛利氏支持を、弟の重棟は織田氏支持を主張していました。一時は織田家支持の方針で固まったかのように見えた別所氏でしたが、賀相は納得していなかったのでしょうね。その思いが、この局面で吹き出します。

 評定の当日、会場に姿を表したのは長治ではなく、賀相でした。もともと毛利派だった賀相が出席した時点で結果は見えていたともいえますが、案の定、評定の席で秀吉と衝突してしまいます。その理由は、「賀相の作戦が受け入れられなかった」とか、「出自の賤しい秀吉に従いたくなかった」などと言われますが、実際のところはどうだったのでしょう。長治が出席しなかったということは、おそらく評定に先立って毛利氏への加担を決めていたのでしょうね。その上で評定に出席したとなれば、ドラマのように、秀吉との衝突は計算通りで、播磨の諸氏たちを扇動するための茶番だったといえます。なかなかの策士ですね。これをキッカケに別所氏は秀吉に叛旗を翻すわけですが、播磨一の別所氏が毛利方に寝返ったことにより、周辺諸氏たちが次々と別所氏に同調していきます。こうして、播磨を反毛利で結束させるべく開催した加古川評定は、逆効果に終わってしまいます。ドラマで描かれているとおり、曲者ぞろいの播磨国の諸氏は、人たらし秀吉をもってしても、一筋縄ではいかなかったようですね。

 この評定の失敗によって、秀吉の播磨平定は2年遅れることになるわけですが、結果的には、別所氏の選択が間違いであったことは歴史の示すとおりです。しかしながら、当時に生きる彼らに、そんな未来が予見できるはずはありませんから、やむを得ない結果ですね。ただ、賀相の毛利氏支持の真意が何だったのかと考えたときに、「織田氏より毛利氏についたほうが有利だ」と考えたのならばやむを得ないとして、もし、重棟に向けた対立感情からきたものだったとすれば、なんともくだらないプライドのために主家の運命を賭けたものだと言わざるを得ません。もっとも、政をくだらない派閥争いの道具にする政治は、現代も変わらないですけどね。命を賭けているぶん、当時の政治家のほうが上だといえるでしょうか。


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by sakanoueno-kumo | 2014-04-15 20:59 | 軍師官兵衛 | Trackback | Comments(2)  

Commented by heitaroh at 2014-04-15 22:42
別所も結果を知る身からすれば、何とも哀れでしたが、でも、それはもしろ、毛利がよくやっていたと見るべきなんでしょうねえ。
Commented by sakanoueno-kumo at 2014-04-16 22:39
< heitarohさん

そうですね。
ドラマでは安国寺恵瓊が裏で操っているように描かれていましたが、それが事実かどうかは知りませんが、この加古川評定の失敗は、多分に毛利の諜略が功を奏したのでしょうね。

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