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軍師官兵衛 第27話「高松城水攻め」 ~秀吉と官兵衛の合作~

 およそ3万の軍勢を率いて備中攻めを開始した羽柴秀吉は、備中境目七城と言われる国境の小城を攻めながら、その中核を担っている備中高松城の城主・清水宗治に投降を勧めます。その交渉にあたっていたのは、ドラマのとおり黒田官兵衛だったと考えられています。しかし、宗治の毛利家に対する忠誠心は厚く、交渉は官兵衛の思うようにいきませんでした。宗治曰く「自分が今日あるのは毛利家からの信頼によるもので、その恩に報いるには、死あるのみ」と。裏切り、寝返りが当たり前のこの時代には類を見ない律儀者だったようです。

 この数カ月前、いよいよ秀吉軍が備中に迫り来るにあたって、毛利家の重臣・小早川隆景は、備中境目七城の城主らを備後三原に集め、対秀吉軍に向けての士気を高めるべくそれぞれの城主に一振りずつの太刀を与えたといいます。これを受けた城主たちは、毛利家への忠誠と必勝を誓いますが、宗治ただ一人は、秀吉軍の強さを軽視せず、「必勝」ではなく「必死」の覚悟をもって戦いに臨むと誓ったとか。ドラマでは、前々話あたりで描かれていましたよね。

 調略作戦を諦めた秀吉軍は、高松城攻略を開始します。このとき日本史上初の「水攻め」という奇策が用いられたことは、あまりにも有名ですね。この作戦を献策したのが、ほかならぬ官兵衛だったといわれています。高松城以外の6城は瞬く間に攻略した秀吉軍でしたが、高松城は攻めあぐねていました。というのも、高松城は周囲を沼地に囲まれた沼城で、兵馬で攻め込もうにも足を取られて動けないという、まさに難攻不落の城でした。

 そんな条件下で、無駄な攻撃を仕掛けていたずらに兵を消耗することを危惧した秀吉と官兵衛は、逆にその湿地帯を利用して高松城を水没させる作戦を考えつきます。いわゆる逆転の発想ですね。その方法は、高松城近くを流れる足守川を堰き止めて流れを変えるという大掛かりな計画でしたが、秀吉軍は尋常ならざる突貫工事で、超短期間で堤を完成させます。その堤の大きさは、東南約4km、高さ8m、底部24m、上幅12mという大規模なものだったとか。これをわずか12日間で完成させたというから驚きです。官兵衛が土木工事に長けていたという話はあまり聞いたことがないので、おそらく、工事を直接計画、指揮したのは、蜂須賀小六あたりか、あるいは秀吉自身だったんじゃないでしょうか。

 季節はちょうど梅雨だったこともあり、たちまちにして城は水没したといいます。この奇想天外な作戦をみごと成功させた秀吉と官兵衛でしたが、水攻めとは即ち兵糧攻めのひとつであり、なぜ三木城鳥取城と同じシンプルな兵糧攻めではなく、大掛かりな水攻めを必要としたのか?という疑問がわきます。もちろん、時節的にも立地的にも条件が揃っていたからにほかなりませんが、それでも、普通の兵糧攻めでも良かったはず。秀吉は、この土木工事でたいそう散財したといいますから、そうまでして奇策を用いるには、そうしなければならな理由があったと考えるべきですよね(だいたい、もしこの奇策が失敗して堤が決壊でもしたら、士気は一気に衰え、形勢逆転は避けられなかったでしょうし)。

 そのあたりの疑問については、小説『黒田家三代』の著者・池田平太郎氏のブログ『備中高松城水攻めにみる心理的効果が黒田官兵衛の特徴』でたいへん面白い分析をされていますので一読いただければと思いますが、わたしが思うに、それ以前に秀吉は何らかの理由で決着を急いでいた、三木城のような長期戦になることを嫌ったんじゃないかと思うんですね。その理由は、織田信長から厳しく急かされていたからかもしれませんし、あるいは、時間をかければかけるほど毛利の援軍が増え、形勢が不利になると考えたからかもしれません。いずれにせよ、普通の兵糧攻めより短期間で決着がつく作戦を模索し、そこで目をつけたのが時節や立地であり、そして水攻めに考え至った・・・と。で、その狙いはみごとに成功し、水攻めを目の当たりにした毛利方は、たちまち戦意喪失。和睦交渉に乗り出します。その和睦交渉中に、「敵は本能寺にあり!」が起こるんですね。

 あくまで結果論にすぎませんが、もし、水攻めで決着を急いでなければ、のちの「中国大返し」はなかったかもしれませんし、そうなれば、その後の秀吉や官兵衛の人生も、日本の歴史も大きく変わったかもしれません。なんとも絶妙なタイミングだったわけですね。この秀吉と官兵衛の合作といえる「水攻め」は、単に日本史上に刻まれた奇策というだけではなく、日本史を大きく変えたターニングポイントだったといえるでしょうか。まさに、歴史の妙ですね。


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by sakanoueno-kumo | 2014-07-07 22:40 | 軍師官兵衛 | Comments(4)  

Commented by mfthirano at 2014-07-08 02:01
官兵衛は子供のころから中国の歴史や戦記の関心があったようなので 晋陽の戦いで水攻めと言う戦術が使われたことは知っていたと思う ただこのときは逆で 水攻めされた側が攻める側に付いた者に次はお前が同じ手でやられるぞと同盟に引き込んで一番強い知氏を逆転倒すという戦いだったということです 宮城谷さんの「孟夏の太陽」に出てきます
信長が長政の頭蓋骨を杯にしたというのも この晋陽で超氏が知氏の頭蓋骨を杯にした故事によっていると思える
「士は自らを知るもののために死す」と言う言葉の由来もあるようで とにかく面白いなと思う
余計なお世話だったら許して下さい
Commented by sakanoueno-kumo at 2014-07-08 19:53
< mfthiranoさん

コメントありがとうございます。
おっしゃるとおり、晋陽城の水攻めからヒントを得たんじゃないかとは言われていますよね。
ただ、官兵衛が献策したというのは後世の憶測であって、実際には、それを裏付ける一級史料は残されていません。
『黒田家譜』では、秀吉が考案して官兵衛が指揮したとありますしね。
官兵衛でも秀吉でも、晋陽城の水攻めの知識はじゅうぶんにあったと考えられるんじゃないでしょうか。
ご紹介いただいた「孟夏の太陽」、機会があれば読んでみたいと思います。
Commented by ZODIAC12 at 2018-08-22 12:56 x
既に上の方で晋陽の水攻めの故事に言及されていますね。
水を兵器として利用するという発想は、やはり非凡なものでしょう。

晋陽で用いられた故事が、支那史上最初だけでなく、世界史上最初の事例でもありますから、それを考案・実行した智瑶は、ある種の天才だったのかも知れません。
そして同じくそれを実行に移した秀吉・官兵衛もまた天才と言っていいでしょう。
Commented by sakanoueno-kumo at 2018-08-22 21:30
> ZODIAC12さん

中国の故事は詳しくないのですが、最初に水攻めを発想した智瑶は、天才としかいいようがないでしょうね。
その故事に明るかった官兵衛なら、あるいはそれを着想することはそれほど難しいことではなかったかもしれませんが、並の大将なら、そんな官兵衛の献策を採用することはなかったでしょうね。
そんな大掛かりな土木工事を短期間でできる訳がない、と、ほとんどの人が思ったでしょうし、もしできたとしても、上手くいく保証はどこにもない。
リスクが大きすぎるし金がかかりすぎる。
普通なら、そう言って一蹴されるところだったでしょうが、それを採用して実行に移して実現してしまうのが秀吉のスゴイところだと思います。
秀吉が天才だとすれば、そんな並外れた実行力なのかな、と。

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