軍師官兵衛 第28話「本能寺の変」 その2 ~官兵衛の進言~
「本能寺の変」の報が、備中高松城攻めの和睦交渉にあたっていた羽柴秀吉と黒田官兵衛のもとに届いたのは、6月3日の夜だったといいます。2日未明に京都で起きた事件の報が翌日の夜には200km以上離れた岡山に届いていたわけですから、尋常ならざる速さです。現代の速達郵便並みのレスポンスですね。この知らせの使者を送ったのは、長谷川宗仁だったといわれています。宗仁は織田信長の奉行衆のひとりで、茶人でもあり画師でもあった人物です。ドラマでも、この説を採っていましたね。
別の説としては、明智光秀が毛利氏に向けて送った使者が秀吉の陣に迷い込み、それを捕縛して拷問にかけたところ、書状が見つかり、信長落命の事実を知ったともいわれます。この説の出典元は、江戸時代初期に書かれたといわれる『川角太閤記』からのようで、捕まった使者は、光秀の家臣で藤田伝八郎という名の人物だったと伝わり、岡山市には「藤田伝八郎の塚」がいまでも残されているそうです。どちらの説が本当かはわかりませんが、あるいは、どちらも本当だったのかもしれません。京のまちを震撼させたであろう信長の落命。その報を伝える使者は、決してひとりではなかったでしょう。
宗仁が送った使者に最初に面会したのは、『川角太閤記』によれば秀吉だったとされ、『黒田家譜』によれば、官兵衛だったといいます。どちらが本当か・・・別にどっちでもいいことともいえますが、おそらく密使は身分の低い者であり、まずは参謀の官兵衛が面会したと考えるほうが自然かもしれませんね。『黒田家譜』によると、官兵衛は書状を見て動揺したが、すぐに気を取り直し、使者を労い、酒食を与え、このこと決して他言無用だと釘をさしたとあります。このあたりの描写はドラマのとおりですね。
で、そのあと秀吉のもとを訪れ、書状を渡します。信長の訃報を知った秀吉は、狼狽し、容易に立ち直れそうにないほど錯乱状態に陥ったといいますが、そんな秀吉に対して官兵衛が囁いた一言は、あまりにも有名ですね。曰く、
「これで殿のご運が開けましたな!」・・・と。
この言葉を聞いた秀吉は、自身の心中を何もかも見透かされていることを恐れおののき、以後、少しずつ官兵衛と距離を置くようになった・・・といわれます。官兵衛の鋭敏な頭脳と、秀吉と官兵衛の微妙な関係を知る上で、欠かせないエピソードだといえるでしょう。しかし、果たしてこの話は事実なんでしょうか?
この逸話の記録としてもっとも古いものは、戦国時代から江戸時代にかけて100歳まで生きたとされる江村専斎の談話をまとめた『老人雑話』だそうです。それによれば、狼狽える秀吉に対して官兵衛は、
「ご運のひらけさせ給うべき時が来たのでござる。よくかんがえさせ給へ」
と述べ、わずか1日半でこの知らせが秀吉のもとへ届いたことを「天のお告げ」だと言って秀吉を奮起させたとあります。
また、似たようなエピソードは『黒田家譜』のなかにもあり、それによれば、
「信長公の御事ハ、とかく言語を絶し候。御愁傷尤至極に存候。」と、信長の死を悼んだうえで、
「さても此世中ハ畢竟貴公天下の権柄を取給ふべきとこそ存じ候へ」
と述べています。今こそ貴公(秀吉)が天下の実権を握るべきだ!という意味ですね。その理由は、主君を討った光秀は天罰を逃れられないとして、すぐさま光秀を討ち、信長の二人の子息を擁立したとしても、彼らには天下を治める能力はなく、やがて諸大名から侮られるでしょう・・・と。その諸大名の叛乱をみごとに秀吉が鎮めたならば、天下はおのずと秀吉のもとに転がり込んでくる・・・と。なるほど、まるでその後の結果を知っているかのような台詞ですね。まあ、その後の結果を知っている人が書いたものですが(笑)。
他にも、『川角太閤記』では、「めでたい。博打を打ちなさい」とあり、江戸中期に書かれた『明良洪範』では、「信長殿の死はめでたい」などといった、かなりエスカレートした表現になっています。いずれにせよ、どれも秀吉、官兵衛の死後数十年経ってから書かれたものであり、そのまま信用できる話ではありませんよね。
ただ、伝えられるように秀吉がひどく動揺していたとするならば、側に仕えていた官兵衛が何らかの言葉はかけたと考えるのは自然だと思います。しかし、それはたぶん、“けしかける”ような言葉ではなく、“励ます”ための言葉だったんじゃないかと。その意味では、『黒田家譜』の記述あたりが、いちばん近かったのではないでしょうか。光秀の天罰云々は、どう考えても結果を知っている後世の創作でしょうが。
伝承によれば、これを機に秀吉と官兵衛の関係が微妙になっていきます。ドラマではどのように描かれるか楽しみですね。
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by sakanoueno-kumo | 2014-07-15 21:42 | 軍師官兵衛 | Trackback(2) | Comments(2)

中国大返し。世界史的にも類例を見ないと言われるこの、200キロにも及ぶ敵前大反転攻勢作戦は常識では考えられない要素を含んでいる。まず、絶えず生命の危険に晒されている戦場では、敵前での後退はそれだけで恐怖心から潰走に至ってしまう可能性もあり、為に、羽柴(豊臣)秀吉は自軍に「敗走」ではなく「転進」だということを明示する意味から、敵将・清水宗治を衆目の中で自害させ、その上で部隊に撤退開始を指示。自身は遅れて、毛利との和睦を確認した6日14時より移動を開始し、途中、休養日などはあったものの7日後の13日には2...... more

また、官兵衛の「ご運の開けたもう時ぞ」発言も、堺屋太一さんなどはせっかく演技しているのに余計なことを・・・と秀吉が思った説を説いておられましたが、現実の軍隊の参謀長であればむしろ、やらないほうが怠慢でしょう。
周囲の警護の兵などにも気づかれるわけで噂と憶測だけで壊滅する可能性もあり。
たしかにそうなんでしょうが、いずれの史料も、結果を知った上で書かれた感があまりにも強く、すべてを鵜呑みにするのもどうなのかなあと思いわけで・・・。
それに似たような会話はあったんでしょうけどね。
堺屋さんの見方も、ある意味人間の本質をみた意見ともいえますが、いささかひねくれすぎかなあと。
秀吉をここまで引き上げてくれたのは信長その人であることは紛れもないことで、訃報を聞いた瞬間は、まずは驚き、動揺するのが普通なんじゃないかと。
そこから冷静になって、これから取るべき策を模索し、これを好機ととらえて事にかかるには、しばしの時間を要したんじゃないでしょうか。