軍師官兵衛 第29話「天下の秘策」 ~清水宗治の切腹~
これを好機ととらえた恵瓊は、毛利本陣には無断で高松城に入り、「首一つで城兵の命と主家の安泰が得られる」と、宗治を説得します。もとより「必死の覚悟」で臨んでいた宗治は、城兵の助命を条件に、恵瓊の提案を受け入れます。毛利家にしてみれば、譜代の家臣でもないのに無二の忠節を尽くす宗治に、その首を出せというのはあまりにも不条理であり、宗治が自ら命を絶ってくれることが、かろうじて面目が立つ道でした。それらを鑑み、あえて恵瓊は毛利本陣に無断でことを進めたのでしょう。さすがは、戦国史きってのネゴシエーター恵瓊ですね。
ドラマでは、官兵衛から信長横死の事実を極秘に聞かされ、そのうえで官兵衛に協力した恵瓊でしたが、もちろん実際には、そんな記録は存在しません。しかし、結果的に見れば、恵瓊の働きがなければ、ここまで速やかに事態の収拾ははかれなかったといえるでしょう。恵瓊は、何らかのかたちで信長横死の情報を得ていたか、あるいは、官兵衛の突然の譲歩案に何かを感じ取っていたか、いずれにせよ、恵瓊の働きあっての「中国大返し」といっても過言ではありません。このときより十数年前の恵瓊が、秀吉の天下を予見していたという話は有名ですが、もとより秀吉を買っていた彼が、ドラマのように官兵衛と内応して事にあたったという見方も、考えられなくもないかもしれませんね。
あと、ドラマでは、宗治についてこの期に及んで「死なせるのは惜しい」と言っていた官兵衛でしたが、たしかに人物的にはそうだったかもしれませんが、秀吉にしてみれば、どうしても宗治の切腹は譲れない条件だったと思われます。光秀討伐のためとはいえ、大幅に譲歩したうえに敵将の首を討たずに退却したとなれば、見ようによれば敗走したともとれる決着のしかたで、秀吉にしてみれば、どうしても宗治の首を討ち、勝利を決定づける既成事実を敵にも味方にも見せつける必要があったと思います。当初は宗治を懐柔しようとしていた秀吉と官兵衛ですが、この局面では、それはあり得なかったんじゃないでしょうか。
切腹を決意した宗治は、秀吉から贈られた酒と肴で別れの宴を催し、その翌朝、小舟に乗って城外に漕ぎ出し、水上で舞を納めたのちに切腹します。本能寺の変からわずか2日後のことでした。このあと毛利軍との和睦が成立すると、秀吉は直ちに城を包囲する堤防の破壊を指示し、すぐさま撤退を開始します。「中国大返し」の始まりですね。
清水宗治の切腹は、のちの武士の哲学ともいえる切腹の儀式の始まりといわれています。これ以前には、切腹の作法は確立されておらず、単なる自殺の手段に過ぎませんでした。戦において捕らえられた武将は斬首がほとんどで、身分の高い武将は切腹させるという習慣もありませんでした。しかし、このときの宗治の切腹を見た武士たちが、その潔さに感銘を受け、一刻も早く京に向かいたい秀吉も、「名将・宗治の最期を見届けるまでは」とその場を動かず、宗治の死に際に敬服したといいます。これ以降、武士にとって切腹は「名誉の死」であるとの認識が広まり、幕末には武士道の象徴的作法となり、「美学」ともいえるほど観念化していくわけです。
辞世の句
「浮世をば 今こそ渡れ武士(もののふ)の 名を高松の苔に残して」
後年、天下人となった豊臣秀吉が、亡き宗治を「日本一の武辺」と賞賛し、その息子、清水景治に対して大名取り立ての勧誘をしますが、景治はこれを断り、毛利の家臣でいつづける道を選びます。宗治の武辺は、その息子へと引き継がれていたようです。
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by sakanoueno-kumo | 2014-07-22 23:40 | 軍師官兵衛 | Trackback(1) | Comments(2)

じゅうぶんに考えられる話だとわたしも思います。
いくら官兵衛が交渉術に長けていたとしても、信長横死の凶報(吉報?)を受けてから1日足らずで決着をつけたわけですから、あまりにも上手くいき過ぎですよね。
恵瓊も何らかのかたちで本能寺の件を知っていて、その上で一役買ったと見るのが、いちばん合点がいく気がします。