軍師官兵衛 第30話「中国大返し」 ~天下人への大いなる助走~
黒田官兵衛の居城である姫路城についた秀吉軍は、約1日半の休憩をとります。このとき、秀吉は城に貯蔵していた金銭や米穀を、すべて兵たちに分け与えたといいます。これは、兵たちに対する慰労であるとともに、再び姫路城に戻ってくることはない、目的は明智光秀討伐以外にないという、背水の陣の決意表明でもあったとされています。過酷な行軍で疲労困憊していたであろう兵たちですが、社長直々に労をねぎらわれ、臨時ボーナスが支給され、大きな仕事に向けてのビジョンが明確にされたわけですから、社員がやる気にならないわけがありません。秀吉の優れた経営手腕がうかがえますね。
9日に姫路城を出発した秀吉軍は、その日のうちに明石、翌日には兵庫に入ります。しかし、ここから先は摂津国。ここまでの播磨国は秀吉の配下にありましたが、摂津国内の領主たちの去就は、はっきりとしていませんでした。そこで秀吉軍は、摂津国に入国するに際して、毛利家の軍旗を掲げます。これは、備中高松城にて講和が成立した際、小早川隆景から借り受けていたものだそうで、これを見た摂津の領主たちは、秀吉軍に毛利軍まで加わったと解釈し、ことごとく秀吉の傘下に下ったといいます。これが官兵衛のアイデアだったかどうかはわかりませんが、なかなかな用意周到さですね。こうして、茨木城の中川清秀や高槻城の高山右近らを味方につけた秀吉軍は、11日に尼崎、12日には富田に着陣します。
本能寺で信長を討った明智光秀は、まず、信長の居城だった安土城に入城し、そして、長浜城、佐和山城を攻略し、一時は近江一帯を手中に収めます。しかし、味方についてくれると信じていた丹後の細川幽斎(藤孝)・細川忠興父子や大和の筒井順慶など、かねてから昵懇の諸将からことごとく援軍要請を拒否され、朝廷を味方につけようとするも、これも思うようにことが運ばず、誤算に次ぐ誤算といった状況に陥ります。そんななか、秀吉軍が信じられないスピードで戻ってきたという大誤算の仰天ニュースが入ってくるんですね。結局明智軍は、孤立無援の状態で秀吉軍を迎え撃たざるを得ませんでした。
6月13日、天王山と淀川に挟まれた山崎にて、決戦の火蓋が切られました。世にいう「山崎の戦い」ですね。後世に「ここが勝負の天王山」という言葉まで生んだ日本史のターニングポイントですが、戦い自体は、わずか1日であっけなく決着がつきます。その理由は、明智軍1万5千に対して秀吉軍3万とも4万ともいわれる圧倒的な兵力の差もあったでしょうが、なにより、「中国大返し」という大進軍を成功させ、不可能を可能にして勢いに乗った秀吉軍と、信長を討ったあとことごとく裏目裏目にはたらいて、意気消沈ぎみだった明智軍との、モチベーションの差が大きかったでしょうね。両軍の合戦を迎えるまでのプロセスで、すでに勝負はついていたといえます。
敗れた光秀は、本拠地である近江坂本城に向かう途中に落ち武者狩りに遭い、竹藪で非業の死をとげます。「本能寺の変」から、わずか11日後のことでした。世にいう「明智光秀の三日天下」です。
一方の秀吉は、ここから一気に天下人への階段を駆け上っていきます。次回のタイトルは「天下人への道」ですが、その意味では、「中国大返し」は、その大いなる助走だったといえるでしょうか。
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by sakanoueno-kumo | 2014-07-28 20:25 | 軍師官兵衛 | Trackback | Comments(2)
え?もう終わりってくらい意外にあっさりと終わってしまい、少し肩透かしのような。
この辺が一番盛り上がる部分だと思うのですけどねえ。
まったくですね。
斉藤利三なんて、「お討ち死に!」の台詞だけで死んじゃいましたし(笑)。
おそらく、山崎合戦自体は、主役の官兵衛の活躍どころがあまりないからでしょうね。
作家さんの思う官兵衛を活かせる場所は、合戦そのものよりも、そこに至るまでのプロセスなんでしょう。
今回の官兵衛の見せ場は、毛利家の軍旗を井上九朗右衛門に持たせたところだったんでしょうね。