軍師官兵衛 第32話「さらば、父よ!」 ~小牧・長久手の戦い~
最終的には、秀吉が信雄を懐柔したことにより、戦いはドローに持ち込まれますが、中国大返し以降、破竹の勢いで天下人に上り詰めようとしていた秀吉にとっては、冷水を浴びせられたともいえる手痛いドローで、また、一方の家康にとっては、のちの豊臣政権下において別格の地位を確立する足がかりとなった戦いといえます。
この小牧・長久手の戦いに、参謀長であるはずの黒田官兵衛の姿はありませんでした。というのも、このとき官兵衛は、毛利家との領土確定交渉にあたっていたからです。一般的には、備中高松城での講和で領土問題も解決していたかに思われがちですが、実際には、棚上げしていただけだったんですね。あのときは、織田家の家臣としての交渉でしたし、何より、早く京へ帰って明智光秀を討たねばならなかったわけで・・・。
この交渉を担当したのは官兵衛と蜂須賀小六。いずれも備中高松城攻めでも中心的役割を担っていたふたりですから、至極妥当な人選だったとはいえるでしょうが、強敵家康と対戦するという局面で、これまで最も頼りにしてきたはずの官兵衛を陣から外していたのは不思議ですよね。ドラマのように、官兵衛が家康との戦いに反対だったかどうかはわかりませんが、秀吉は単に家康を侮っていただけなのか、あるいは、俗に言われる軋轢が生じ始めていたのか、いずれにせよ、官兵衛が参謀から外れたこの戦いで手痛い敗北を喫したのは事実で、「官兵衛がいなかったから負けた」という声も、当時からあったかもしれません。とすれば、秀吉にとっては余計に面白くなかったでしょうね。そんなこんなで、二人の間の溝は深まっていったのかもしれません。
官兵衛の父・黒田職隆が逝きましたね。『黒田家譜』によると、逝去したのは天正13年(1585年)8月22日、62歳だったと伝えられますが、その死因などはわかっていません。ドラマでは、官兵衛や長政を優しく見守るおおらかな人物として描かれていましたが、これも『黒田家譜』によると、「職隆は天性温和にして慈愛が深く、正直にして義を守ること剛毅である」と記されているそうです。実際にも、ドラマのような人物だったのかもしれませんね。職隆のような人望に厚い父が姫路に腰を据えていたからこそ、当主である官兵衛が気兼ねなく領国を留守にして、信長や秀吉のもとで立ち回れたといえるかもしれません。父の後ろ盾あっての官兵衛だったといえるでしょうか。
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by sakanoueno-kumo | 2014-08-11 21:19 | 軍師官兵衛 | Trackback | Comments(2)
利家とまつの香川照之や、八重の桜での小泉孝太郎などは見事でしたので。
それにしても、親父が盆前まで生きてたなんて前代未聞じゃないですか?平清盛でも長いと感じたけど春先まででしたよね。
たぶん、官兵衛の奇想天外な知略が垣間見れる戦以外はスルーなんでしょうね。
とすれば、次にスポットが当たる戦は、おそらく小田原城攻めなのかなあと。
>もう少し味のある演技を見たかったような
そうですね。
そもそも、三成役の俳優さんの名前すら知りませんし。
といっても、わたしは俳優さんの名前とかに疎いので、実は有名なかたなのかもしれませんが。
>親父が盆前まで生きてたなんて前代未聞じゃないですか?
たしかに。
まあ、それはおそらく、長く生かしておきたかったというより、時系列的にこの時期になったのかなあと。
このたびの作品は本能寺も遅かったですしね。
いままでの作品だと、だいたい6月2日に一番近い日曜日が本能寺のあてられることが多かったですが、このたびは、そのあたりで有岡城幽閉を描いていましたからね。