軍師官兵衛 第34話「九州出陣」 ~九州平定と官兵衛に対する恩賞~
四国平定の翌年、官兵衛は秀吉の命で九州征伐に出陣します。それ以前から九州では、薩摩の島津氏と豊後の大友氏で覇権を競っていました。当初は、九州北部6ヵ国を制覇していた大友氏でしたが、徐々に弱体化が進み、天正13年(1585年)の戦いで厳しい状況に追い込まれます。そこで大友宗麟は、関白になっていた秀吉のもとに出向き、豊臣家の傘下に入ることを条件に救援を請います。これを受けた秀吉は、大友・島津両氏に停戦命令を下しますが、島津氏は成り上がりの秀吉を軽視し、これを拒否。怒った秀吉は、天正14年(1586年)7月、島津氏討伐を決意します。このとき、軍目付として戦を仕切ったのが、ほかならぬ官兵衛でした。
このときの秀吉軍の主力は毛利氏でした。これは、なるべく豊臣本隊を消耗しないための官兵衛の策だったといわれています。ドラマにもあったように、毛利家の吉川元春はこのとき隠居の身で、秀吉からの出陣要請を拒んだとされていますが(そもそも、隠居したのも秀吉に従うことを嫌ってといわれています)、弟の小早川隆景や甥の毛利輝元らの説得により、重い腰をあげたと言われています。
官兵衛がもっとも力を発揮したのは、合戦前の下準備でした。九州北部の島津方に与する領主に対して、最も得意とする寝返りの工作を行います。しかしその方法は、諸将に面会して説き伏せるという従来の調略ではなく、「やがて秀吉が九州入りした際、味方すれば本領を安堵するが、敵対すれば攻撃する」といった内容の書状を送り付けたといいます。これは、秀吉が九州入りした際に花を持たせるための、官兵衛の演出だったのではないかとも言われています。やはり、そこまで気を使わなければならないほど、二人の関係には溝が出来ていたのでしょうか?
戦いは一進一退で8ヵ月以上に及びましたが、天正15年(1587年)3月、ついに秀吉が九州に入ると、かつての官兵衛の下準備が功を奏したのか、秀吉の到着とともに島津方の諸将が次々に降伏し始めます。そして4月、島津氏は降伏。秀吉の九州征伐は完了しました。
さすがにこの九州征伐での官兵衛の貢献度の大きさは、誰の目にも明らかだったでしょう。この巧により、ようやく官兵衛にも豊前国に6郡12万石が与えられますが、これでも、官兵衛の働きからいえば少ないといえます。このとき小早川隆景は、筑前ほぼ1国と筑後、肥前のそれぞれ1部など合わせて52万5千石を与えられ、また、佐々成政は肥後13郡のうち12郡の50万石を与えられました。官兵衛はこれまで5万石の身でしたから、倍増といえばそうなんですが、でもねぇ・・・。やはり秀吉は、官兵衛に大きな力を与えることを恐れていたのでしょうか?
いずれにせよ、以後、官兵衛は慣れ親しんだ播磨を離れ、九州に拠点を移すことになります。
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by sakanoueno-kumo | 2014-08-25 18:52 | 軍師官兵衛 | Trackback(1) | Comments(4)
私はこういうのに疎いもので・・・。
ちなみに当然、石田三成役の人も知りません。
顔は見覚えあるような(笑)。
あっ、また舌足らずでスミマセン。
わたしのいう二人とは、貴兄が名前を知らないとおっしゃった吉川元春役と石田三成役の俳優さんのことです。
鶴見辰吾さんはわかりますよぉ!
どっぷり金八世代ですからぁ!!
ややこしくてスミマセン。