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軍師官兵衛 第35話「秀吉のたくらみ」 ~伴天連追放令~

 九州を平定した豊臣秀吉は、筑前滞在中の天正15年(1587年)7月、キリスト教南蛮貿易に関する禁制文書を発令します。いわゆる「伴天連(バテレン)追放令」ですね。これまで、キリスト教の布教を容認していた織田信長の政策をそのまま継承していた秀吉でしたから、まったくもって突然の通達といった印象で、キリスト教信者にとってはまさに青天の霹靂だったことでしょう。

 秀吉が伴天連追放令を出した理由については、諸説あって定説がありません。一説には、日々拡大しつつあるキリスト教の勢力に、かつて信長を苦しめた一向一揆の姿を重ね合わせたためとも言われますし、また別の説では、キリスト教信者による神道・仏教への迫害があったためとも言われます。たしかに、領民を無理やりキリスト教に改宗させたり、神社や寺院の破壊活動などの暴挙あったようで、あながち的外れな見方ではなかったようです。

 フランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教を伝えてからほぼ半世紀。小さなコミュニティに過ぎなかった時代は見過ごせていたものが、信長の時代を経ていつの間にか巨大化しつつあったキリシタン勢力を、このまま野放しにしておくわけにはいかなかったのでしょうね。信長とて、南蛮貿易によるを得るためにキリスト教を容認していただけで、積極的に推奨していたわけではなかったでしょう。秀吉も、同じ理由で踏襲していたものの、利よりもが大きくなり始めたため、弾圧に踏み切ったものと考えられます。よく、のちの朝鮮出兵と並んで秀吉の悪政としてあげられるこの伴天連追放令ですが、それとこれとは少し違うんじゃないでしょうかね。

 黒田官兵衛がキリシタンだったことはよく知られていますが、意外なほどそれを裏付ける史料は乏しいようです。黒田家の正史とされる『黒田家譜』でも、官兵衛がキリシタンだったことにはまったく触れていません(これについては、禁教令が敷かれていた江戸時代に編纂された史料のため、隠匿されたと考えられています)。確認できる史料として、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスの書状によると、官兵衛がキリスト教に入信したのは天正11年(1583年)のこととされています。時期的には、大坂城普請や毛利氏との領土問題で奔走していた頃ですね。入信を薦めたのは、ドラマのとおり高山右近だったようです。なぜ入信したのかはわかっていませんが、おそらく右近の熱心な勧誘があったんじゃないでしょうか。

 官兵衛は「ドン・シメオン」という洗礼名を授かり、「Simeon Josui」というローマ字印を押した書状が現代に残っています。シメオンとは古代ユダヤに由来する男性名だそうで、「聞く、耳を傾ける」という意味だそうです。

 秀吉の伴天連追放令が発布されると、官兵衛はただちに棄教したといわれますが、同じキリシタン大名である小西行長の家臣らが追放されると密かに召し抱えたりと、表面的には棄教しながら、信仰心は持っていたのかもしれません。官兵衛に入信を薦めたとされる高山右近はキリスト教を捨てることが出来ず、領地、財産を捨てて諸国を転々としたのち、最終的にはマニラに逃れます。かつての主君だった荒木村重のことは裏切った右近でしたが、キリスト教は捨てられなかった。よほど信仰に厚かったようですね。

 以後、秀吉の死後もキリスト教に対する弾圧は継承され、キリスト教に門戸が開かれるのは、250年後の黒船来航まで待つことになります。


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by sakanoueno-kumo | 2014-09-04 18:57 | 軍師官兵衛 | Comments(13)  

Commented by heitaroh at 2014-09-06 14:13
バテレン追放令については秀吉のそれは「出しただけ」で終わってるんですよね。
家康とその後の将軍家によってどんどん厳しくなっていたと記憶しております。
ちなみに、キリスト教解禁は黒船来航・・・ではなく、もう少し後なのでは・・・。まあ、どうでもいい枝葉末節な話でしょうが。
Commented by sakanoueno-kumo at 2014-09-06 15:46
< heitarohさん

おっしゃるとおりで、秀吉は追放令を発布したものの、特に厳しい処罰や弾圧を強行してないですからね。
踏み絵とかは全て、江戸時代に入ってからですからね。

>黒船来航・・・ではなく、もう少し後なのでは?

細かくいえばおっしゃるとおりですが、南蛮への扉を開く全てのきっかけとなったのが黒船来航と言いたかったわけで・・・。
舌足らずですみません。
Commented by ZODIAC12 at 2018-11-08 19:59 x
先日別記事で唐入り(文禄・慶長の役)に関するコメントをしましたが、その事と密接に関連していますので、以下の通りに抜粋引用します。
私の言葉ではない上に、文章も大分長くて恐縮ですが、秀吉が伴天連追放に踏み切った背景がよく纏められていますので。

引用元は政治家である西村眞悟さんのブログ【西村眞悟の時事通信】からです。
現時点では最新記事の、平成30年11月7日(水)にアップされた【明治百五十年、日本と西洋、どちらが野蛮か】というタイトルの記事からの抜粋引用です。



========
【抜粋開始】


我が国は、十六世紀中期に始めて西洋人と遭遇したが、それから約五十年後に彼らを我が国から排除した。
そして、約二百五十年間の鎖国を経て、十九世紀中期に再び西洋人と遭遇する。
彼らは、我々日本人とは全く違った。それは、単なる動物としての肌や目や毛の色の違いではない。

彼ら西洋人は、キリスト教という宗教を、神から与えられた使命として全世界に広めるために、即ち、全世界をキリスト教徒の最高位のローマ教皇の支配地にするために、十六世紀初頭からヨーロッパから海に乗り出して、約五十年間で、遂に一番遠い(ファーイースト・極東)我が国に到達してきたのだ。
この西洋人が世界に乗り出して勢力圏を広げようとした衝動は、「信仰」という旗を掲げた「物欲」であった。
従って、西洋を知り西洋に対処するには、彼らが信じ彼らを突き動かしてきた宗教である「西洋のキリスト教」とは何かを知らねばならない。

まず、結論を言うならば、「西洋のキリスト教」は、恐ろしい宗教であった。異教徒を「人間」と見なさない宗教だった。
従って、西洋人は、牛や馬と同じ家畜のようにアジアやアフリカの異教徒を扱い、野生動物を捕まえるように捕まえて奴隷として売買した。
また、狐やウサギの狩りをして楽しむのと同じように、レジャーとして異教徒狩りをして、その射殺数を競うことができた。
また、異端、例えば、キリストの母聖母マリアは処女であることを信じない者を、一千年以上の間、異端者として火あぶりにする宗教だった。
Commented by ZODIAC12 at 2018-11-08 20:06 x
中世のキリスト教国によるキリスト教の聖地エルサレムでのアラブ人の殺戮(十字軍)は凄まじく、コロンブスがアメリカ大陸に到達した一四九二年から南米大陸で起こった原住民に対する民族絶滅・種族絶滅に近いキリスト教徒の暴虐をみれば、西暦三九二年に、ローマ帝国のテオドシウス帝がキリスト教を「国教」として他の宗教を禁じ、ローマ帝国の版図である「西洋」がキリスト教化したことが、現在にいたる人類の惨害の出発点だと思はざるを得ない。

しかし、二十世紀に入り、明治維新を為した極東の日本が台頭し、一九〇五年、アジア・アフリカの諸民族の目の前で、ロシア帝国を撃破した。
そして、一九四二年二月十五日、日本軍は、大英帝国の東洋支配の牙城シンガポールを陥落させた。
その時、フランスのドゴールは、数百年にわたった白人のアジア支配が終わったと言った。
これ、二十世紀において、文明の日本が有色人種を差別する野蛮な西洋を破ったということだ。


さて、一五四三年、この「西洋」から火縄銃二丁を持ったポルトガル人が、始めて我が国の種子島に漂着する。
種子島の領主種子島時尭は、その二丁の銃を買い取った。買値は現在の価値で五千万円だったという。
ここで、注意すべきは、種子島時尭は、始めて会ったポルトガルの漂着民から、銃を「買い取った」ということだ。
同時期、西洋人がアフリカやアメリカで原住民にしたことは「略奪」だった。どちらが文明か野蛮か?

また、付言しておくが、二丁の銃が五千万円という破格の価格で売れたので、ポルトガル人は数年後に再び銃を持って種子島に売りに来た。
しかし、日本人は銃を彼らから買わなかった。何故なら、日本の国産銃のほうが彼らの銃より性能がよかったからだ。
このことから明らかなことは、我が国は、初めて遭遇した西洋と対等に対処していたといえる。
西洋から見れば、我が国は、アメリカやアフリカで遭遇した簡単に支配できる相手ではなかった。
Commented by ZODIAC12 at 2018-11-08 20:13 x
この鉄砲伝来から六年後の一五四九年、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが薩摩半島南端に来航した。武器とキリスト教が相次いで、我が国に来たのだ。
そして、さらに来たのは奴隷商人である。キリスト教の宣教師と武器商人と奴隷商人の三者は連携して非西洋世界に乗り出していた。
この、ザビエル来航から三十三年後の天正十年(一五八二年)、日本のキリスト教の信者は十五万人に達していたようだ。

天下人の織田信長が、明智光秀に討たれた本能寺の変が起こるのはこの天正十年であるが、同じ年この変の前、長崎から十三歳と十四歳の少年四人が欧州に向けて出発した。
天正遣欧少年使節団である。彼ら四人の少年は九州のキリシタン大名の子弟で、ポルトガルを経てスペインのフェリペ二世に拝謁し、ローマではローマ教皇グレゴリウス十三世に拝謁しローマの市民権を得て、八年後の天正十八年(一五九〇年)に、青年となって長崎に帰ってきた。

この少年使節派遣は、宣教師アレッサンドロ・ブァリニァーノの発案で、ローマ教皇とスペインやポルトガル王から日本布教の経済的援助を受けるため、また、日本人にキリスト教世界の偉大さを体験させ日本布教に役立てるために実施された。
そして、四人の少年達は、八年間にわたる旅のなかで、確かにキリスト教世界を見た。さらに、自分たちよりも先に、キリスト教世界にいる日本の少年少女の存在を知った。
即ち、彼らは、欧州の奴隷市場で、裸にされて売られている大勢の日本人女性達を見たのだ。日本の少女は、従順で聡明だということで高値がつく奴隷だったという。
日本に来た西洋の宣教師と武器商人と奴隷商人はセットである。これ、実に野蛮ではないか。

キリシタン大名が、清い信仰のためにキリスト教徒になったと単純に思ってはならない。世は戦国時代だ。この時代を制するものは武力だ。
我が国は、優れた鉄砲を造ることができた。しかし、弾丸を発射する火薬の原料の硝石が日本になかった。キリシタン大名になれば大量の火薬を獲得することができたのだ。


この時、本能寺の変の後に我が国の覇者となった豊臣秀吉は、北九州でキリシタン宣教師と遇い、キリシタン大名の領地を見た。
そして、キリスト教を布教する宣教師の目的は、日本をスペインやポルトガル王の領国にしてローマ教皇の配下に置くことにあるのを見抜いた。
Commented by ZODIAC12 at 2018-11-08 20:16 x
またキリシタン大名の領国では、キリスト教の教会が建てられ、寺社仏閣が破壊され撤去されていた。つまり、キリシタンは日本の権威を否定していたのだ。
また、宣教師と奴隷商人が各地から少女達を調達し、武器や火薬と引き換えて、裸にし数珠つなぎにして奴隷船に乗せていた。
彼らは、火薬一樽をキリシタン大名に渡して、日本の女性(処女)五十人を連れ去った。
このようにしてヨーロッパに連れ去られた日本女性は五十万人という(奥山篤信著「キリスト教というカルト」春吉書房)。

ここにおいて、秀吉は、バテレン追放令を発した。
この十六世紀後半の非西洋世界で、西洋から我が国に持ち込まれたキリスト教の危険性を直ちに見抜いた文明国の指導者は、秀吉のみではなかろうか。

仮に秀吉自身が、火薬ほしさにキリシタンになっておれば、日本は日本でなくなっていたであろう。
日本は、天皇を戴く国ではなくなって国名もスペインのフィリペ二世にちなんで、フィリピンとなっていたかもしれない。
秀吉の慧眼と尊皇の志が、日本即ち万世一系の天皇を戴く日本の國體を救ったのだ。


この秀吉の後に来る徳川家康、秀忠そして家光によって確定されてゆく徳川幕藩体制は、天皇から権威を奪う体制であった。
Commented by ZODIAC12 at 2018-11-08 20:19 x
それ故、慶応三年(一八六七年)十月十四日の徳川慶喜の「大政奉還」の上奏を受け、同年十二月九日に「王政復古の大号令」を発した新政府は、翌慶応四年(明治元年)五月十日、戦死者の慰霊に関する明治天皇の叡慮を反映した「御沙汰書」を発する。
新政府は、直ちにその冒頭で、次の通り、豊臣秀吉と楠木正成を追賞している(小堀桂一郎著「靖國の精神史」)。


「大政御一新の折柄、賞罰を正し、節義を表し、天下の人身を興起遊ばされたく、既に豊太閤・楠中将の精忠英邁、御追賞仰せ出され候」


現在、隠れキリシタンの遺跡が世界遺産とされ、キリシタン大名も清い大名のように注目されているが、その時、日本が直面した「西洋」は、言葉の真の意味の西郷の言う「野蛮」だったのだ。
それ故、隠れキリシタンの世界遺産もいいが、それのみではなく、同じ時期に、キリシタンの奴隷となって西洋に連れ去られ、裸にされて奴隷市場で売られていた多くの我が国の乙女達の悲しく可哀想な人生を忘れてはならない。


【抜粋終了】
========



以上です。これらの事こそが、伴天連追放令を発し、文禄・慶長の役を起こした背景でした。
秀吉の英断によって我が国は西洋の侵略と、奴隷にされる事を免れたのですから、後世の我々は秀吉に感謝しなければなりません。
Commented by sakanoueno-kumo at 2018-11-09 23:22
> ZODIAC12さん

わたしの歴史の入口は歴史小説や史伝が主で、学問としての歴史をちゃんと身につけてきていないので、宗教史、思想史には明るくありません。
本当に歴史を深く掘り下げようと思えば、それらの分野にも知識を広げないといけないのでしょうが、どうにも興味がわかない。
というか、むしろ、嫌悪感すら抱いています。
なぜか。
それは、宗教や思想で歴史を語る人の多くが、偏狭で屈折していて断定的で、とにかく、自身の歴史観以外を頭から否定する姿勢だからです。
ご紹介いただいたこの方のこの文章が、まさにそれそのものです。
たしかにキリスト教というのは、歴史に多くの宗教戦争を巻き起こした負の要素をたくさん持っていますが、だからといって、キリスト教信者や宣教師が、皆、野蛮な民族だという見方はあまりにも偏狭な見方です。
日本にも人身売買の歴史はありますし、奴隷もいました。
一部の負の歴史だけをフィーチャーして他国をこき下ろし、暗に自分たちこそが優れた民族だと主張する論調は、中国や韓国が南京大虐殺や慰安婦問題をエキセントリックに非難する姿と同じです。
気持ち悪い。

この秀吉がバテレン追放令に至った目的も、貴兄が論じられた文禄・慶長の役の背景も、私は否定もしませんが、にわかに信じることもできません。
数ある解釈の中のひとつの説として、覚えておくことにします。
Commented by ZODIAC12 at 2018-11-11 10:40 x
そのように感じられますか?確かにキリスト教に対する敵意や、実際に行って来た蛮行に対する憤りがあって、表現が尖っていますが、私はこの程度では偏狭だとも、屈折してるとも、エキセントリックだとも思いません。

重要なのは表現よりも、「論の内容が客観的事実に基いているか?基いていないか?」ではないでしょうか。
「ヨーロッパに連れ去られた日本女性は五十万人」の箇所だけは数字に誇張があるのではないかと疑問に思いますが、それ以外は事実をありのままに語っているだけです。
なので私はただ「ああ、その通りだな」と思うだけです。

sakanoueno-kumoさんのそれらの酷評は、発言者の意図から逸れたものだと思います。
我が国にもかつては人身売買や奴隷があった事や、「南京大虐殺」「従軍慰安婦」などを、ここで引き合いに出す事に意味があるでしょうか?
場違いですし、的外れではないでしょうか。特に「南京大虐殺」「従軍慰安婦」は事実ですらありませんし。

そして私は上で引用した内容こそが、伴天連追放令や文禄・慶長の役の背景や真因だと思います。
そう考えませんと、秀吉の次代を受け継いだ徳川政権が、秀吉の政策の路線を引き継いで、キリスト教を禁教としたり、鎖国体制を築いてスペイン・ポルトガルを、国内から徹底して排除した事の説明が付かなくなりますから。


以上ですが、客観的事実に基いているかいないかに関係なく、そういう尖った論調自体が生理的に嫌いだというのでしたら、それはそれで仕方がありません。感じ方は個人の自由ですから。
Commented by sakanoueno-kumo at 2018-11-12 00:22
> ZODIAC12さん

<客観的事実に基いている>

そうでしょうか?
わたしには、キリスト教に対する敵意に満ちた主観的な意見にしか思えませんが。
この方の論証がすべて客観的事実ならば、学術的に定説と認められるのでは?
しかし、申し訳ないが、貴兄が別稿で語られた文禄・慶長の役の背景も含めて、そのような説が定説や通説とされた論文などをわたしは知りません。
もちろん、通説が必ずしも正史だとはいいません。
ただ、わたしは学者ではないので、自身で古文書などの史料を読み下すようなスキルがあるわけでもなく、歴史家さんたちの学説というものをある程度信用しています。
なので、貴兄のように、現在の通説を俗説だと言い切れるような自信がどこから出てくるのかが理解できません。

それから、たぶん、これを言うと貴兄は噛みついてくるだろうと思って差し控えていましたが、わたしがこの方の論証に嫌悪感を覚える一番の理由は、ここです。

<秀吉の慧眼と尊皇の志が、日本即ち万世一系の天皇を戴く日本の國體を救ったのだ。>

結局、このような偏った歴史観を持つ人の論証の行きつく先はここなんだなと。
戦前の皇国史観から抜けきれない薄気味悪い集団のひとりなんだなと。

勘違いしないで欲しいのは、わたしは天皇制否定派ではありませんし、むしろ、世界に類のない千年以上続く王家(という表現もあなた方は気に入らないのでしょうが)を中心とした国体を持つ日本という国に誇りを持っています。
ですが、必要以上に天皇家を美化する右傾の思想には同調したくありませんし、そもそも、天皇家を万世一系とも思っていません(少なくとも継体天皇のときに一度途切れていると思っていますし、それ以外にも怪しいと思われる天皇はいると思っています)。
ただ、天皇家という歴史と伝統を持つ王族が我が国に今なお君臨し、国民がその王族を敬い、王は民を慈しむ。
その国体を美しいと思うだけです。
それ以上でもそれ以下でもありません。
ちなみに、わが家は薩摩士族の末裔ということもあって、神道です。

つづく。
Commented by sakanoueno-kumo at 2018-11-12 00:23
> ZODIAC12さん

コメント返しのつづきです。

<特に「南京大虐殺」「従軍慰安婦」は事実ですらありませんし。>

あなた方はそう決めつけるんですよね。
わたしは、申し訳ないが、否定も肯定もしません。
わからないですから。
そこにいなかったですし。
なかったと言い切れるような資料を持ち合わせていません。
もちろん、中国や韓国の言う数字や内容は、膨張された敵意に満ちたものだと思いますが、だからといって、全くのでっち上げだとも思っていません。
火のない所に煙は立たぬです。
でも、そういうことを言うと、あなた方は「反日」だの「売国」だのと言って罵るのでしょう?
だから嫌いなんです。
わたしは心から日本人に生まれたことを誇りに思っていますし、日本という国を愛しています。
でも、必要以上に自国の歴史を美化し、他国を罵ることが愛国心だという国粋主義の精神には、わたしはとても同調できませんし、それが愛国心だというならば、申し訳ないが、愛国心などクソくらえです。
以上です。
貴兄は的外れだとおっしゃられますが、わたしから見れば、それもこれも同じ穴の狢です。
Commented by ZODIAC12 at 2018-11-24 15:26 x
私が上で語った全ての内容に対して、肯定も否定もしないも、信じる信じないも勝手ですが、私は既に多くの学者によって検証されて来た事を語っているだけです。なので決め付けている訳でも、過度に美化している訳でもありません。

それはいいとして、「現在の通説を俗説だと言い切れるような自信がどこから出てくるのかが理解できません」と、まるで私が何の根拠もなく、勝手な思い込みだけで物を言ってるかのように思われるのだけは心外ですので、その根拠を示します。

まずは上で私が言った、「徳川政権が秀吉の政策の路線を引き継いで、キリスト教を禁教としたり、鎖国体制を築いてスペイン・ポルトガルを、国内から徹底して排除した事」の箇所がそうです。
この連続性がそれを裏付けているとは思えませんか?

更には一番上のheitarohさんとのやり取りでそれぞれ、「バテレン追放令については秀吉のそれは「出しただけ」で終わってる」「秀吉は追放令を発布したものの、特に厳しい処罰や弾圧を強行してない」と言われていますが、実際には文禄5(1596)年に「サン・フェリペ号事件」が起きて、それが原因で慶長元(1597)年に「二十六聖人殉教事件」が起きています。
特に前者が元になって、布教を隠れ蓑にしたスペイン・ポルトガルの侵略の意図を、初めて知るキッカケとなりました。

そして調べてみましたら、高瀬弘一郎という歴史学者の著書『キリシタン時代の研究』(岩波書店)に詳しく記載されているようですが(私は未読なのに引き合いに出すのも何なのですが)、日本にやって来た宣教師たちが、本国や同じ会派の仲間宛に書き送っていた書簡が、史料としてたくさん現存しています。
それらは皆、日本や明の征服計画に関する事を、露骨に書き綴った内容です。

簡略ながら以上が根拠です。
これらをどう評価されようと勝手ですが、私は決して根拠のない妄想を吐いている訳ではない、という事だけは明記しておきます。
Commented by sakanoueno-kumo at 2018-11-26 01:36
> ZODIAC12さん

根拠のない妄想だとは言っていません。
もちろん、そういう説があるということは、何らかの根拠があるのでしょう。
でも、それはひとつの説であって、一般的に通説、定説とはなっていませんよね。
一般的な見方としては、文禄・慶長の役も伴天連追放令も、晩年の秀吉の悪政という見方が多いと思います。
多いから正しいとは言いません。
ですが、貴兄は、別稿にいただいたコメントで、それは単なる俗説だと断言し、「木を見て森を見ず」な見方だとおっしゃっています。
そう言い切れる自信が理解できないと言っているまでです。
否定はしていません。

わたしは、歴史をあまり深読みしません。
結果を知っている後世から見れば、その結果に至る経緯の答え合わせをするために、無理に穿って解釈しようとする向きがありますが、わたしは、史実とはもっと単純なものなんじゃないかと思っています。
なので、逆説的な解釈も、ひとつの説として興味は持ちますが、信憑性はあまり感じません。
ほとんどの場合、一般的な通説となっているものが、もっとも単純明快な解釈です。
わたしは、それをある程度支持します。

それから、ご紹介いただいた方の持論は、普通にフラットな見方をする人が読めば、誰が読んだって偏ってますよ。
これを客観的だと言われる貴兄の感覚が理解出来ない。
何度も言いますが、わたしは、特定の思想や宗教を攻撃するような歴史の見方は好きではない・・・というか、嫌いです。
なので、キリスト教およびキリスト教徒の国をケチョンケチョンにこき下ろし、万世一系の天皇家を有する我が国こそ素晴らしいとするこの方の論旨は、どこからどう見ても、キチガイじみているとしか思えません。
申し訳ないが、このわたしの感覚が理解できないという貴兄とは、たぶん、理解しあえることはないでしょう。

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