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雨の但馬路紀行 その6 「桂小五郎潜伏の地、出石」

ここ出石は、幕末のある時期、のちに維新三傑となる長州藩士の桂小五郎こと木戸孝允公が潜伏していた町としても知られています。
元治元年(1864年)に起きた禁門の変(蛤御門の変)で長州藩は朝敵となり、追われる身となった小五郎は、新撰組や幕吏の手を逃れて数日間京都に潜伏していましたが、いよいよ身の危険を悟った小五郎は、出石の町人・広戸甚助という人物の助けを得て京のまちを脱出、ここ出石に逃れます。
出石に逃れた小五郎でしたが、当時の出石藩は佐幕派が主流で、長州藩の大物・桂小五郎を亡命させてくれるはずがありません。
小五郎は広戸家で匿われながら、広江屋孝助という偽名を使い、この場所で荒物屋を営んでいたそうです。
長州なまりとか、どうしてたんでしょうね。
いまは蕎麦屋になっているその跡地に、ひっそりと石碑が建っています。

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小五郎が出石に潜伏していた期間は9ヵ月ほどでした。
禁門の変で朝敵となった長州藩内では、一時保守派が政権を握りますが、高杉晋作率いる奇兵隊軍事クーデターを成功させ、再び攘夷派が実権を握ります。
そこで高杉晋作や大村益次郎は、長州藩の統率者として小五郎を迎えるべく探索し、ここ出石に潜伏しているらしいとの情報をつかむと、さっそく迎えの者を送り込みます。
このとき、小五郎を迎えに来たのが、京都三本木の美人芸者でのちに小五郎の正妻となる幾松だったとか。
小五郎は神道無念流剣術の免許皆伝という剣豪でありながら、真剣を用いたという記録はほとんどなく、追われる身となってからも、商人や乞食に変装し、ときには女装までして闘争を避けることに徹していたため、「逃げの小五郎」とあだ名されたとか。
その逃げの小五郎を献身的に庇護していたのが、幾松だったという話は有名ですね。
朝敵となった小五郎が乞食姿に身をやつして二条大橋の下に潜伏したときにも、出石に亡命するまでの間、密かに食料を運んで支えたのが幾松でした。

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幾松が出石に迎えに来てから、20日間ほどここで一緒に暮らしていたと伝えられます。
その後、小五郎と幾松は城崎温泉に行ったとか。
日本人初の新婚旅行をしたのは坂本龍馬おりょう夫妻だと言われますが、こちらは婚前旅行ですからねぇ(笑)。
こっちのほうが進んでいたともいえるのかなぁ・・・と(笑)。

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明治に入って桂小五郎は木戸孝允と改名。
幾松は正式に孝允と結婚し、木戸松子と名乗ります。
「逃げの小五郎」の最も長い逃亡劇の舞台である出石は、小五郎が幾松との結婚を決意したまちでもあったかもしれませんね。

あと1回くらい続けようかどうしようか・・・。


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雨の但馬路紀行 その6 「桂小五郎潜伏の地、出石」
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by sakanoueno-kumo | 2014-09-11 21:45 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)  

Commented by heitaroh at 2014-09-11 22:08
あ!そうか、桂小五郎の潜伏先ですよね。そう言われればわかります。
Commented by sakanoueno-kumo at 2014-09-13 00:20
< heitarohさん

わたしもよくあります。
歴史上に出てくる地名と現代の地名がイコールで結びつかないってこと。

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