軍師官兵衛 第37話「城井谷の悲劇」 ~宇都宮鎮房謀殺~
闇雲に攻め入るだけでは落とせないと悟った黒田軍は、官兵衛の帰国後、兵糧攻めを開始。それと平行して宇都宮氏に与する周辺豪族を徐々に撃破していき、宇都宮軍を孤立無援に追い込んでいきます。さらに、黒田軍が毛利氏、小早川氏の援軍を得ると、さすがの鎮房も観念し、小早川氏の仲裁の元に和議を結びます。その条件は、鎮房の息子・宇都宮朝房と、娘の鶴姫を人質に出すというものでした。一説には、鶴姫を長政の側室に差し出したという説もありますが、『黒田家譜』ではそれを虚説だとしており、真偽は定かではありません。
ようやく豊前を落ち着かせた官兵衛は、天正16年(1588年)正月、居城を馬ヶ岳城から中津城へと移します。しかし、人質こそ出したものの、相変わらず城井谷城に居座ったまま黒田家のもとに出仕しようとしない鎮房との間には、依然として緊張感が張り詰めていました。やはり、新しい領主と元の領主が同じ領内で共存共栄するというのは、無理があったのでしょうね。
春、豊臣秀吉より再び肥後行きを命じられた官兵衛は、鎮房の動向が気になりながらも中津城を離れます。このとき官兵衛は、鎮房より人質として預かった朝房を同行させます。そして、長政にくれぐれも鎮房のこと油断なきよう申し付けたとか。前回鎮房が挙兵したのも官兵衛不在のときでしたから、当然の警戒だったといえるでしょう。そして、案の定今回も官兵衛不在中に事が起こり、結果的に鎮房は、長政によって謀殺されてしまうんですね。
鎮房謀殺の流れについて『黒田家譜』には、以下のように記されています。これまで城井谷城から動こうとしなかった鎮房が、官兵衛が不在と見るや200の兵を率いて中津城に押しかけ、一礼のためとして長政に謁見を求めてきます。これを受けた長政は、「まことに一礼のためならば、官兵衛・長政父子がそろっているときに、日限を伺って小勢でくるべきであり、案内もなくにわかに押し掛けるなど、無礼の極みである!もし、謁見に至ってなおも無礼をはたらくようであれば、即座に誅殺すべし!」と、家臣たちに命じたとか。そして、謁見した鎮房は、やはり無礼な態度であったため、酒席に乗じて誅殺した・・・と。あくまで鎮房の無礼による討伐だったとの記述です。
しかし、黒田家主観で記された『黒田家譜』の記述が、どこまで信用できるかは疑問ですよね。作家・池田平太郎氏の著書『黒田家三代』では、鎮房は「傲然と押しかけてきた」のではなく、「おびき寄せられて殺された」のではなかったか、と説いています。ドラマも、その解釈で描かれていましたね。たしかに、そのほうが無理がないように思えます。
ドラマでは、鎮房謀殺は長政の独断だったように描かれていましたが、肥後に向かう前に官兵衛が命じていたとする説もあります。そのあたりの経緯は、すべて想像するしかありませんが、おびき寄せて殺したという説が正しければ、タイミングを見て事にあたるよう、あらかじめ官兵衛が長政に示唆していたと考ても無理はないですよね。ネタバレになりますが、鎮房謀殺の知らせを聞いた官兵衛は、ただちにその子・朝房の命を奪います。はじめからそれを見据えて肥後に連れていっていたのかもしれません。
鎮房を討ち取った長政は、その後、合元寺に待機していた200の兵を一人残らず討ち取り、さらに、残党が残る城井谷城へと兵を進め、鎮房の父を殺害し、残った兵を捕縛して磔にするなど、残酷な刑に処します。おそらくこのあたりはドラマでは描かれないところですが、官兵衛も長政も、九州攻めから豊前平定に至るまで、各地で抵抗勢力に残酷な刑を科しています。これらがすべて秀吉の命令だったかどうかはわかりませんが、新参者が新天地を支配するには、そういった力技もなければ不可能なことで、あまり殺生を好まなかったと言われる官兵衛とて、例外ではなかったということでしょうね。こうした試練を経て、官兵衛は九州に根を下ろしていきます。
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by sakanoueno-kumo | 2014-09-16 21:40 | 軍師官兵衛 | Trackback(1) | Comments(0)
