軍師官兵衛 第42話「太閤の野望」 ~文禄の役~ その1
文禄元年(1592年)4月、朝鮮出兵が開始されます。9つの隊で形成された豊臣軍(あえて日本軍とは言いません)は総勢15万8千の大兵団で、総大将は豊臣家一門扱いとなっていた宇喜多秀家が努めます。第1軍は小西行長軍、第2軍は加藤清正軍、そして黒田軍6千は長政を主将として大友義統とともに第3軍に任じられていました。ドラマでも描かれていましたが、この小西軍と加藤軍が終始、互いに競り合い、牽制し合うという関係で、結果的にそれが軍の統率を乱すことになります。官兵衛は、当初は渡海せずに秀吉の側付きで名護屋城いましたが、総大将が若干21歳の若さの秀家であるため、その補佐をすべく、軍監として参加することになります。
釜山に上陸した豊臣軍は、わずか数時間で釜山城を制圧、その2日後にはすぐ北にある東莱城を陥落させます。これにより釜山全域を占領した豊臣軍は、その後も快進撃を続け、わずか20日間で首都の漢城に入ります。ところが、すでに漢城はもぬけの殻となっていました。豊臣軍の快進撃に恐れおののいた李氏朝鮮国の国王は、数日前に平壌に逃亡していたのです。そのおかげで豊臣軍は労せずして首都を占領。現地の民衆たちも、民を見捨てて逃げてしまった国王に愛想を尽かし、豊臣軍に協力する者が続出したといいます。ルイス・フロイスの記述によれば、「(朝鮮人たちは)恐怖も不安も感じずに、自ら進んで親切に誠意をもって兵士らに食物を配布し、手真似でなにか必要なものはないかと訊ねるありさまで、日本人の方が面食らっていた」とあります。こういう話は、きっとあちらの歴史教科書には載ってないんでしょうね。
その後も豊臣軍は着々と戦勝を重ねて北上し、6月15日には小西行長軍・黒田長政軍が平壌城を陥落させます。このとき、長政は大いに奮闘しました。ドラマでは描かれていませんでしたが、こんな逸話があります。
このとき長政は李応理という剛者に矢で射られるも、その矢を抜かないまま李応理に斬りつけ、そのまま組み合って河の中に落ちました。からくも李応理との射ち合いには勝ったものの、鎧が重く溺れそうになり、なんとか助けをかりて岸に上がります。そんな長政をそばで見ていた家臣の後藤又兵衛は、「わが主君は、この程度の敵に討たれるようなお人ではござらん!」と、長政を助けようとせず見物していたといいます。これに長政は激怒し、かねてから不仲になりつつあった両者の確執がいっそう深まったとか。実話かどうかはわかりませんが・・・。ドラマでは、長政と又兵衛の確執部分にはあまりふれないようですね。
同じ頃、別働隊の加藤清正軍も会寧で李氏朝鮮の王子2人を捕縛しました。たまりかねた李氏朝鮮の国王・宣祖は、明に援軍を要請。そして7月16日、明軍が平壌城奪還にやってきます。しかし、このときは小西軍がこれを見事に撃退します。明が参戦してきたこの機に、豊臣軍は進軍を平壌までとし、明・朝鮮連合軍も講和を申し出てきました。しかし、相手は異国人ですから、日本国内で和議を結ぶようにはいきません。なってたって、相手は中国ですからね。
長くなっちゃったので、後日「その2」につづきます。
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by sakanoueno-kumo | 2014-10-21 00:23 | 軍師官兵衛 | Trackback | Comments(0)