軍師官兵衛 第43話「如水誕生」 ~上善は水の如し~
一、官兵衛付きの家臣は、ひとまず長政の預かりとし、松寿(官兵衛の甥)が成人した際には、松寿付きにすること。
二、今後、長政に実子が生まれないときは、松寿を跡目に定めること。しかし、実子であろうと松寿であろうと、その器量がなければ跡目をとらすこと無用である。
三、家臣、親類に不愍を加えよ。他家から新しい家臣を雇うな。
四、諸事、心ままには成らざるもの、堪忍の分別が第一
五、無力では何もできないが、無力にならないようにといって家臣を蹴倒すことは、なおさら無用である。
六、親類・家臣に不愍を加え、母に孝行し、上様(秀吉)・関白様(豊臣秀次)を大切に思っていれば、神を信仰することも不要である。
第一、二条に記されている松寿とは、官兵衛の実妹の子で、官兵衛の養子となっていました。父・官兵衛と同じく長政にもなかなか子ができず、その長政の幼名である「松寿」という名を与えられていることから考えても、この時点では黒田家の跡目最有力候補だったことがわかります。しかし、官兵衛は松寿を跡継ぎ候補に置きながらも、その能力がないと判断すれば、松寿であれ、後に生まれるかもしれない実子であれ、後継者にするなと戒めています。血縁継承こそ大事とされたこの時代に、実力主義を説く官兵衛は、やはり普通とは違った進んだ考えの持ち主だったのでしょうか。あるいは、ちょうどこの頃、秀吉と淀殿の間に拾(のちの豊臣秀頼)が生まれたことにより、微妙な立場に追いやられていた関白・豊臣秀次の姿を見て、何かしら思うところがあったのかもしれません。いずれにせよ、官兵衛らしい考えといえるでしょうね。
第四条では耐え忍ぶことを説き、第六条の後半では、信仰よりも豊臣家に忠節を尽くすことが、黒田家を存続させるために何より大切であると説いています。天下人の器として秀吉から警戒されていたと言われる官兵衛ですが、当の本人からはそんな野望はまったく感じられず、蟄居の身となりながらもひたすら秀吉に忠節を尽くすことを説く官兵衛は、極めて冷静な現実主義者だったと想像できますね。さすがは軍師といえるでしょうか。
この遺言状とも言われる覚書が記されたのは、文禄2年(1593年)8月9日付となっていますが、偶然か否か、その翌日の8月10日付で、秀吉は官兵衛を許す旨を伝えた朱印状を長政宛に送っています。そこには、
「勘解由(官兵衛の官職名)がこと(中略)重ねて御意得るべき由にて候間、帰朝の儀、曲事に思おぼし召し、ただちに御成敗なるべく候。左様にてはその方(長政)迷惑すべく候。親に替わり候て諸事申しつく様(中略)勘解由儀は助け置かされ候。その旨を存じ、いよいよ奉公にぬきんでるべく事」
とあります。意訳すると、
「本来であれば、勝手に朝鮮から帰国した官兵衛はただちに成敗すべきところだが、このたびは長政の武功に免じて許すことにしよう。この恩を忘れず、これからもよりいっそう豊臣家に奉公せよ」
といったところでしょうか。息子の活躍のおかげで命拾いした官兵衛でしたが、あるいは、長政の顔を立てたのは秀吉の方便で、官兵衛を許す口実を作っただけかもしれません。千利休の例もあるように、殺そうと思えば殺せたはずですからね。秀吉は、まだまだ官兵衛を必要と考えていたのでしょうね。
官兵衛が号した「如水」は、読んで字のごとく「水の如く」生きるという意味でしょう。老子の有名な言葉に「上善如水」というものがありますが、水は器に合わせてかたちを変える柔軟性を持ち、万物に恵みを与え、争うということなく低いところに留まろうとします。そんな水のような生き方こそが、理想的な生き方である・・・と、老子は説いています。おそらく、官兵衛はこの言葉を知っていたのでしょうね。上善は水の如し・・・。水は穏やかに流れば人々の心を癒やし、ひとたび激しく流れれば、すべてを飲み込む力があります。官兵衛改め如水は、このとき本当の強さを悟ったのかもしれません。
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by sakanoueno-kumo | 2014-10-28 22:33 | 軍師官兵衛 | Trackback(1) | Comments(2)

正直、熊之助のことはよく知らないのですが、通説では、朝鮮に渡る途中に海難事故で死んだとされていますよね。
あれって、信憑性のある話なんですか?
たしか貴兄の小説でも、この時点でまだ熊之助は生きているものの、幼い松寿が後継者候補に定められているというのは、熊之助がよほど器量のない人物だったんじゃないかと書かれていましたよね。
実際はどうだったのか、本当に海難事故で死んだのか、それを立証する一次史料があるのか、わたしも知りたいところです。