軍師官兵衛 第45話「秀吉の最期」 その2 ~なにわの事も ゆめの又ゆめ~
「秀より事 なりたち候やうに 此かきつけのしゆ(衆)としてたのミ申し候 なに事も 此不かにはおもいのこす事なく候 かしく 八月五日 秀吉印」
「いへやす(徳川家康) ちくせん(前田利家) てるもと(毛利輝元) かけかつ(上杉景勝) 秀いえ(宇喜多秀家) 万いる 返々秀より事 たのミ申し候五人の志ゆ(衆)たのミ申し候 いさい五人物ニ申わたし候 なこりおしく候 以上」
五大老に向けた秀吉の遺言状です。とにかく「秀頼のことをよろしく頼む」と、手を合わせるようにして五大老らに頼み続けていますね。天下人の最後のメッセージとしては、あまりにも無様で哀れな内容ですが、幼子を残して逝く親の心中としては、少なからず共感できなくもありません。むろん、戦国時代の中を戦い抜いて天下人となった秀吉のこと、主家である織田信長の子に対して自らのとった仕打ちを思えば、誓紙や口約束など何の役にも立たないことはわかっていたでしょう。わかってはいても、そうするしかなかった・・・そこが、秀吉の最期の悲痛さです。
この遺言状が書かれた約2週間後の慶長3年(1598年)8月18日、豊臣秀吉はその劇的な生涯に幕を閉じます。享年62歳。
その辞世の句は、
つゆとをち つゆときへにし わがみかな なにわの事も ゆめの又ゆめ
(露と落ち 露と消へにし 我が身かな 浪速のことは 夢の又夢)
実に見事な辞世ですよね。意訳するのは無粋かもしれませんが、「なにもかもが夢であった。今となってはな・・・」といったところでしょうか。日本史上最大の立身出世を遂げ、位人臣を極めた男が、最期に辿り着いた境地がこの歌だったというところに、豊臣秀吉という人物の魅力を感じ取ることができます。まるで、物語のような人生であったと・・・。しかし、一方で、ほとんど狂気といえる晩年の愚行も、上記の未練タラタラの悲痛な遺言状も、豊臣秀吉という人物の一面であることに違いありません。この二重人格ともいえるアンバランスさが、秀吉という人の人間臭さを表しているような気がします。
秀吉の最期は、豪壮華麗な伏見城での臨終でした。数限りない武将を戦場で無念の死に追いやってきた男は、まことに平和で安らかな臨終を迎えられる立場に恵まれながら、人を信じられず、我が子の行く末を案じ、最期は狂乱状態であったともいわれます。志半ばで戦場に散った武将たちと、財も位も権力も昇りきれるところまで昇りつめた豊臣秀吉の、どちらが幸せな死に際であったか・・・。人の幸せのあり方について、あらためて考えさせられます。
「太閤は英雄であった。惜しむらくは己の死んだあとのことを、もっと考えておくべきであった」
そう言った家康は、己が死んだあとの憂いを入念に拭い去ってからこの世を去るんですね。
朝鮮から帰国した黒田官兵衛と、死を目前にした秀吉が面会したという記録は残っていません。おそらくはドラマの創作で、あのように二人が会うことはなかったでしょう。でも、ドラマのあの長い別れのシーンは感動でしたね。二人の関係は物語の核といえるもので、いわばドラマの集大成といえるシーンだったと思います。天下人となった秀吉は官兵衛を冷遇しながらも、結局、最期に本音で語れるのは官兵衛だった・・・。官兵衛は最期の最期まで、秀吉の家臣であり軍師だった・・・。秀吉のもとを去った後に感情があらわになる官兵衛の後ろ姿が、とても印象的でした。
実際の官兵衛も、秀吉の死の知らせを受けたときは、きっと感無量だったに違いありません。官兵衛がいなければ秀吉の天下はなかった・・・というのは言いすぎだと思いますが、秀吉との出会いがなければ、官兵衛の人生はまったく違ったものになっていたであろうことは間違いなく、官兵衛にとって秀吉は、人生そのものだったといえるでしょう。官兵衛にとって秀吉の死は、大きな人生の節目、その後は「余生」といった気分になったんじゃないかと想像します。その余生で、もうひと暴れするんですね。ここから、黒田官兵衛の最終章が始まります。
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by sakanoueno-kumo | 2014-11-11 19:53 | 軍師官兵衛 | Trackback(1) | Comments(0)