軍師官兵衛 第49話「如水最後の勝負」 ~石垣原の戦い~
そんなとき、三成からの使者が官兵衛のもとへ着きます。要件は、言うまでもなく西軍に味方するように促したものですが、三成の提示した条件は、「西軍に味方すれば好きな土地に領地を与えよう」というものでした。しかし、官兵衛はその程度の誘いに乗る男ではありません。「九州7ヵ国をいただけるのなら、お味方しましょう」と、飲めるはずのない要望を吹かっけて、使者を追い返します。豊臣秀吉にその才を買われて出世した三成ですが、調略の才は、あまりなかったようです。
一方、三成との決戦に向けて西へ進軍していた東軍内では、長政が父顔負けの暗躍ぶりを見せ、福島正則の説得、宇喜多秀家の不参戦、さらに、勝敗を決定づけた小早川秀秋の寝返り工作に貢献したといいます。若き日の長政は武勇一本の武将といったイメージでしたが、やはり、官兵衛の血を引いていたということでしょうか。
関ヶ原の戦いの火蓋が切られるより先に、九州で西軍と東軍が激突します。官兵衛の領国の隣で、東軍を支持していた細川忠興の家臣・松井康之が守る豊後国杵築城を、西軍に属していた大友義統が襲撃します。杵築城は、元は義統の城でしたが、朝鮮出兵の折に敵前逃亡したことで秀吉の怒りを買い、改易されたという経緯があります。義統にとっては、旧領回復の執念を燃やした戦いでもありました。
官兵衛は義統を討伐するため出陣します。その際、全軍の前で、「大友義統は朝鮮で敵を見ずに逃げ出した臆病者ゆえ、たとえ何万騎で来ようと、百に一つも負けることはない。」と演説をし、兵の士気を高めたと伝えられます。この演説の場所は後に「如水原」と呼ばれ、現在でも「大分県中津市上如水」という住所が残されています。
関ヶ原の戦いの2日前、官兵衛軍と大友軍は、石垣原で激突します。当初は大友軍に押されぎみとなりますが、夕刻に官兵衛本隊が到着すると形成は逆転、大友軍は立石の本陣へ後退を余儀なくされます。この時点で戦意喪失となった総大将の義統は、翌々日に剃髪して降伏を申し出ます。この一連の戦いが、後世に九州版関ヶ原の戦いと言われる戦ですね。
ドラマでは、井上九朗右衛門と一騎討ちをした大友軍の武将・吉弘統幸が、かつて黒田家の食客だったという設定でしたが、実際にも、大友家の改易のあと一時黒田家に招かれ、井上家に預けられていたそうです。そんな二人の一騎討ちについて『黒田家譜』には、こう記されています。
「吉弘は南の岸の上にたち、井上は北の岸の上に立てあひ向ふ。両人は、先年よりしたしく馴近付たる事なれば、久しくて参り会たりとて、しばし物語しけるが、いさや花やかに戦て、勝負を決せんと互にいひ合せて、面もふらず戦ひける。」
一説には、もはや勝ち目がないと悟った統幸が、九朗右衛門に功を挙げさせるるため、自刃して討たれたという説もあるそうです。そんな統幸のことを『黒田家譜』では、
「吉弘がごとき眞の義士は、古今たぐひすくなき事なり」
と、絶賛しています。
大友義統が降伏した同じ日、美濃国関ヶ原では両軍合わせて20万の兵が激突する、日本史上最大の戦が始まっていました。次回、いよいよ最終回です。
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by sakanoueno-kumo | 2014-12-09 20:00 | 軍師官兵衛 | Trackback(1) | Comments(4)

吉弘と井上の一騎討ちなど、石垣原合戦を描くのなら一番美味しい部分では?と思うんですけど。
確かにそうですね。
石垣原合戦についてよく知らないという人も結構いるでしょうから、もっと時間を使って描いて欲しかったですね。
吉弘統幸の登場も、なんか唐突すぎて・・・。
あくまで官兵衛が主役の物語ですから、中央の戦いよりも、こっちをフィーチャーして欲しかったですね。
ところで、関ヶ原の決着は最終回まで持ち越されましたが、戦後はほとんどエピローグのような描き方になりそうですね。
貴兄が予想していたとおり、福岡が舞台となるのは、ほんの一瞬になりそうですね(笑)。

ご指摘ありがとうございます。
切って落とすのは幕ですね。
以前も同じ間違いをして別の人から指摘を受けたことがあったのですが、また同じ間違いをやらかしちゃいました。
訂正させていただきました。
歴史は好きですが、語彙力はまったくない素人の駄文ですので、ご容赦ください。