三木合戦ゆかりの地めぐり その3 ~竹中半兵衛墓所~
半兵衛は三木城攻めの真最中の天正7年(1578)6月13日、平井山本陣にて病没したと伝えられます。

場所は平井山観光ぶどう園のなかにあります。
ここを訪れた日は2月15日という冬まっただ中で、周囲はキツネ色の畑と裸木に囲まれて寂れた印象の写真になっていますが、いい季節に来れば、きっと緑に囲まれた美しい景色なんでしょう。

そんな自然の中に、特別な場所といった感じの白漆喰に塗られた土塀が見えます。

案内板の横の細い道を入っていくと、四方を土塀で囲まれた廟所となっています。

手前の花立ては新しいもののようですが、墓石と石灯籠は、かなり古いもののようです。
墓石には、「竹中半兵衛重治墓」と記されています。

半兵衛は、もとは美濃国斎藤氏の家臣の家に生まれますが、主君の斎藤龍興の暴君ぶりに愛想をつかせて斎藤家を去り、その後、羽柴秀吉の熱烈なラブコールを受けて、織田信長傘下に入ります。
そして、その後は秀吉の片腕として各地に転戦し、殊勲を立てました。

しかし、半兵衛はもともと病弱だったといわれ、この三木城攻めの真最中に胸を病みます。
秀吉のすすめで一時は京都に移って療養しますが、やがて自らの死期を悟ると、「武士ならば畳の上でなく戦場で果てたい」と秀吉に懇願し、この地に帰ってきました。
ほどなく病魔は容赦なく半兵衛の身体を蝕み、天正7年(1578)6月13日、この墓所の東にある平井山本陣にて病没します。
享年36歳。
死因は肺病とされ、おそらく、現代の肺炎か肺結核と考えられています。
秀吉は、半兵衛の遺体のとりすがり、「お先真っ暗」と、ひと目もはばからずに泣き崩れたといいます。

墓所内に立てられた40年ほど前の手書き看板です。
文字がかすれて読みづらいですが、この墓所の維持のために、その昔から竹中山と称する山林1ヘクタールが村の山として残され、毎年6月13日には村の老若男女が仕事を休んで供養を続けている、と書かれています。

こちらの看板の漢詩は、天保年間(1830年~1844年)、儒者の山田翠雨がこの墓に参拝の折に詠んだものだそうです。
最後から二行目に、「土を盛り上げた一つの塚が平井山の緑の中に包まれる」とありますね。
土を盛り上げた塚とは、おそらく墓石の後ろの盛り土のことでしょう。

ところで、三木市内には半兵衛の墓と伝わる場所が、もう1か所あります。
次稿では、そのもうひとつの半兵衛の墓を紹介します。
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by sakanoueno-kumo | 2015-03-18 19:25 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(2)
平井山付城に行かれたのであれば、ここはセットのようなものですもんね。
ここはカーナビで「竹中半兵衛の墓」と検索しても出てくるほど有名ですからね。
緑の綺麗な季節いけば、白漆喰の壁が映えるんじゃないかな・・・と想像しています。















