三木合戦ゆかりの地めぐり その4 ~もうひとつの竹中半兵衛墓所~
場所は、前稿(その3)で紹介した平井山の麓の墓所から、直線距離で1kmほど離れたところにある栄運寺というお寺の裏山。
平井山の墓所は有名ですが、こちらはあまり知られていません。
栄運寺は、写真のようなのどかな田園風景を見下ろすように、山の麓の高台にあります。
晴れてたらきっといい景色だったのでしょうけど、あいにくこの日は雨上がりの重い雲に覆われた日で、路面も乾いていません。
近くに駐車場はないので、ずいぶん遠くに車を停めて徒歩で向かいます。
栄運寺が見えてきました。
境内に向かう手前に、墓所への誘導看板を発見。
ここから、山道を登ります。
なかなかハードな傾斜道です。
しばらく登ると、また誘導看板がありました。
おかげで迷わずに進めます。
誘導看板から少し奥に進むと、古い墓石のある場所にたどり着きました。
どうやら、ここがもうひとつの半兵衛の墓所と思われるのようです。
宝塔のような墓石の裏には、天正七年六月十三日と刻まれています。
たしかに、半兵衛が死んだと伝えられる日です。
墓石に立てかけられた卒塔婆には、戒名が揮毫されています。
向かいの小さな石には、よく見ると「竹中」と書かれているようです。
あるいは、こちらが墓石で、向かい側の立派な石塔は、供養塔のようなものかもしれません。
平井山の墓所から1kmほどしか離れていないこの場所に、なぜ半兵衛の墓があるのかわかりませんが、おそらくどちらも半兵衛の墓とみていいのでしょうね。
なぜ2つの墓が存在しているのかはわかりませんが、たぶん、建てられた時期が違うのでしょう。
見た感じ、こちらのほうが古そうに思えましたから、あるいは、没後すぐに埋葬されたのは、こっちかもしれません。
あくまで、わたしの印象ですが・・・。
半兵衛は死ぬ半年ほど前、このとき有岡城に幽閉されていた黒田官兵衛孝高の嫡男・松寿丸(のちの黒田長政)を、織田信長の処刑の命に背いてかくまったという話は有名ですね。
しかし、その後、官兵衛が有岡城から生還したときには、半兵衛はこの世にいませんでした。
きっと、官兵衛もこの地に参ったのではないでしょうか。
三木の人々にとっては敵方の武将である竹中半兵衛の墓にもかかわらず、400年以上もの長きに渡り、地元の人の手によって守られてきたことを思えば、いまこうして歴史に触れることができることを、感謝せずにはいられません。
豊臣秀吉の墓所なんて、豊臣氏の滅亡と共に破壊されてしまいましたからね。
三木市民のご先祖さまに感謝です。
そんなこんなで、後日、まだまだ続きます。
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by sakanoueno-kumo | 2015-03-19 23:58 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(2)
そうだったとすれば、寺などはだいたい、高台にあるものでしょうから、そちらが正しいのかもしれませんね。
あるいは本陣近くに分骨したとか。
寺で臥せっていたという話が実話かどうかはわかりませんが、肺病の人を埃っぽい陣中に寝かすのは、得策ではありませんよね。
たぶん、最後は寺のような場所で息をひきとったのでしょうね。
それがこの寺だったのか、また、なぜ墓所が2か所あるのか、いろいろ調べてみましたが、わかりません(三木市役所で三木合戦関連の本を何冊か購入したのですが、2か所の墓を記載してはいるものの、その理由まで書いたものはなく・・・)。
ただ、わたしの印象では、没後すぐに建てられたものだとすれば、こっちかなと。
平井山のほうは、すこし新しいように思えました。