人気ブログランキング | 話題のタグを見る

花燃ゆ 第13話「コレラと爆弾」 ~日米修好通商条約とコレラ大流行~

 「コロリ」こと伝染病コレラが日本で初めて発生したのは、文政5年(1822年)のことだそうです。このとき感染は九州から東海道まで及びますが、箱根の山を超えて江戸までは達さなかったそうです。次にコレラが日本に上陸したのが、ドラマの舞台である安政5年(1858年)でした。このときも江戸までは達することはなかったとする説と、江戸だけで10万人が死んだとする説があります。どちらが事実かはわかりませんが、いずれにせよ、感染は西日本から広まったようで、たちの住む萩城下でも、大勢の感染者が出たであろうことは想像できますね。萩には小田村伊之助こと南方仁先生がいるのにねぇ(笑)。

 このときのコレラ大流行は、幕府大老・井伊直弼日米修好通商条約に調印したタイミングと、バッチリ重なってしまいました。それも、朝廷の勅許を得ぬままの強行だったため、全国の攘夷論者たちは激怒します。時の帝である孝明天皇(第121代天皇)は大の外国人嫌いであり、そこにコレラ騒ぎが加わったものだから、コレラは異国人がもたらした悪病であると信じられ、「神聖なる日本の国土を汚す外夷は即刻討つべし!」と、過激攘夷論が一気に加熱します。さらにさらに、ドラマでは描かれていませんでしたが、徳川家内の将軍継嗣問題による一橋派南紀派の争いも加わり(この辺りを掘り下げると話がどんどん脇にそれていくので、このたびは省きます)、世情は大いに混乱します。

 本来、コレラの流行と外交問題と徳川家の跡継ぎ問題はまったく関係のない話だったはずが、それらの問題がすべて混ぜ合わさって、とんでもない化学反応を起こすんですね。開明派である一橋派が攘夷派で、守旧派である南紀派が開国派という、後世から見ればなんとも不思議な構図ができ、そんななか、南紀推しであり、条約を独断で結んだ張本人であり、コレラを日本に上陸させた(わけではないのだが)悪の権化ともいうべき、「井伊を斬るべし!」といった気運が、攘夷派内で一気に高まります。コレラ菌もたいへんなときに日本に上陸したものです。ある意味、ペリーと同格といえますね。

 条約調印の報に接した吉田松陰も、当然、激しく憤ります。そして、自宅蟄居という罪人の身でありながら、藩主・毛利敬親に向けて、直弼の横暴を大いに批判した建白書を提出します。その内容は、
「帝のご意思を無視せぬよう、今からでも幕閣に諌言すべきである。もし、その諌言が聞き入れられない場合は、幕閣を斬り捨てることもやむを得ない
という超過激なものでした。そんなとき、松下村塾の塾生から松蔭のもとに、驚愕の情報がもたらされます。それは、直弼が自身の領国である近江国彦根城に孝明天皇を移し、意のままに操ろうとしている、というもの。これに仰天した松蔭は、それに対抗する策として、直弼が帝を彦根へ連れ去る前に、長州藩兵の護衛のもと、帝を比叡山にお移ししよう、という策を立案し、藩政に提案します。しかし、当然ながらこの策が取り上げられるはずがありません。そもそも、直弼の彦根遷座策の風聞が事実かどうかもわからず(実際に行われなかった)、仮に事実であったとしても、譜代大名筆頭で大老である直弼の方針に、外様大名である長州藩が単独で対抗できるはずはありませんでした。当然ですよね。意見を採用されなかった松蔭は激しく憤り、そして、このことが契機となって、松蔭の主張は日に日に過激になっていきます。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2015-03-30 20:47 | 花燃ゆ | Trackback(1) | Comments(0)

 

<< 都賀川公園の桜の木の下で思う。 三木合戦ゆかりの地めぐり その... >>