花燃ゆ 第17話「松蔭、最期の言葉」 その2 ~吉田松陰刑死~

 吉田松蔭の取り調べは、その後、安政6年(1859年)9月5日、10月5日と続きますが、その間、概して取調官らの口調は穏やかで、松蔭に対して温情的な態度だったといいます。しかし、10月16日の訊問では態度が一変し、厳しい口調で口上書が詠み上げられました。そこには、間部詮勝老中に意見を申し述べて、もし耳を傾けてもらえないようであれば、刺し違えるつもりであった、という、松蔭がまったく供述した覚えのない内容が記されていました。これに松蔭は激しく異をとなえます。もとより死は恐れていない、しかし、奉行による権力の奸計には、断固屈しない・・・と。

 「今日義卿奸權ノ為メニ死ス天地神明照鑑上ニアリ何惜ムコトカアラン」
 (全ては天地神明の知るところであり、何を惜しむことがあろうか)


 この取り調べのあと、松蔭は牢役人のひとりから、幕閣が自身を死罪に処するつもりでいることを聞かされたといいます。その話によると、10月5日の吟味まで温情的だった奉行たちは、松蔭の処罰は遠島(流罪)が相当という意見書を幕閣に上申しますが、その意見書は取り上げられず、下された処分は極刑の死罪でした。その刑を下したのは、大老・井伊直弼自身だったと。ドラマでは、「遠島」の上から紙を貼って「死罪」と訂正していましたが、たぶん、このエピソードを元にした演出だと思われます。

 死を覚悟した松蔭は、10月25日から26日にかけて、遺著となる『留魂録』を執筆しました。その冒頭の句が、あの有名な句です。

 「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」
 (この身はたとえ武蔵野地に朽ち果てようとも、この国を思う魂だけは、この世にとどめて置きたい)


 この言葉が、その後松蔭の弟子たちをはじめ、幕末の志士たちを突き動かす原動力になっていくんですね。

 『留魂録』を書き上げた翌日の10月27日朝、松蔭は幕府の評定所にて斬首刑を言い渡されます。そして駕籠にて伝馬町牢屋敷に運ばれ、その日のうちに敷地内の刑場で首が落とされました。享年30歳。このとき松蔭の首を討った御様御用の山田浅右衛門は、後年、松蔭の最後についてこう語っていたそうです。

 「悠々として歩き運んできて、役人どもに一揖(いちゆう)し、『御苦労様』と言って端座した。その一糸乱れざる堂々たる態度は、幕吏も深く感嘆した」

 こうして、吉田松陰の劇的な生涯が幕を閉じました。
 そして、もうひとつ。

 「親思ふ 心にまさる 親心 けふのおとずれ 何ときくらん」
 (子が親を思う心以上に、親が子にかける情は深い。今日の知らせを父母が知ったら、なんと思うだろう)


 有名な辞世の句ですね。哲学的、思想的な名言を数多く残してきた松蔭ですが、最後の最期に彼が残した言葉は、親より先に逝く親不孝を詫びた、実に心のこもった人間らしい言葉でした。後世に狂人と評される吉田松陰ですが、実は普通の感情を持った青年であったことを、この辞世で感じ取ることができます。なんとなく、この句で救われたような気がするのは、わたしだけでしょうか?


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by sakanoueno-kumo | 2015-04-28 21:24 | 花燃ゆ | Trackback(1) | Comments(0)  

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