花燃ゆ 第18話「龍馬!登場」 ~桜田門外の変と航海遠略策~

 意外にもあっさり終わった「桜田門外の変」でしたね。過去の幕末作品においても、同事件を描かなかった例はないことはないのですが、今回の作品での井伊直弼は、前半の主役ともいうべき吉田松陰を死に追いやった張本人であり、しかも演じている俳優さんもビッグネームの高橋英樹さんですから、もっとフィーチャーされると思っていました。銃声一発だけの演出とは驚きましたね。物語の舞台である萩からは遠く離れた江戸での事件で、主役のとは直接関わりのない出来事ですが、「安政の大獄」をあれだけ引っ張ったんだから、その結末である「桜田門外の変」も、しっかり描いて欲しかった気がします。

 吉田松陰の死から4か月余りが過ぎた安政7年(1860年)3月3日、桜田門外の変が起こります。この年の3月3日は、現在の暦でいえば3月24日で、早ければ桜が咲き始める時期でしたが、この日は季節外れの大雪でした。雪のため視界が悪かったのか、あるいは警護が杜撰だったのか、井伊を乗せた駕籠の行列総勢60余人は、たった18人の水戸脱藩浪士たちの手によってさんざんに切りつけられます。駕籠内にいた直弼は、最初に短銃で撃たれて重傷を負っていたため駕籠から動けず、供回りの彦根藩士は狼狽して多くが遁走、駕籠は地上に捨て置かれたままでした。襲撃者たちは駕籠の外から何度も刀を突き刺した後、瀕死の直弼を駕籠から引きずり出し、首を刎ねました。享年46歳。幕府大老となって、わずか2年足らずの命でした。

 この暗殺によって、直弼が守ろうとした幕府権力ならびに独裁的政治秩序は急速に失墜していきます。水戸の名もなき下級藩士たちの手によって時勢が動いたという現実。この「桜田門外の変」が全国の攘夷派志士たちに与えた衝撃ははかり知れません。作家・司馬遼太郎氏は、短編集『幕末』のなかで、次のように述べています。

 「暗殺という政治行為は、史上前進的な結果を生んだことは絶無といっていいが、この変だけは、例外と言える。明治維新を肯定するとすれば、それはこの桜田門外からはじまる。斬られた井伊直弼は、その重大な歴史的役割を、斬られたことによって果たした。・・・中略・・・この事件のどの死者にも、歴史は犬死させていない。」

 この事件がなくても、やがて幕府は崩壊したかもしれませんが、歴史の展開を早めたことは間違いないでしょうね。

 長州藩重役・長井雅楽が提唱した『航海遠略策』とは、急速に広まりつつあった攘夷思想をけん制した内容で、それによれば、
「積極的に通商を展開して国力を高め、その上で諸外国と対抗していこう」
というもので、目先の「小攘夷」ではなく、将来を見据えた上での「大攘夷」という思想でした。しかし、この建白書の内容を知った久坂玄瑞をはじめとする松下村塾系の書生たちは、激しく反発します。後世の目から見れば、長井の主張は至極もっともな意見であり、この数年後には実際にその方向に進んでいくのですが、この段階では、長井の考えは進みすぎていたんですね。この建白書のせいで、やがて長井は命を狙われる立場となります。正論を掲げるにもTPOがあるんですね。

 坂本龍馬武市半平太の使者として萩を訪れたのは、文久2年(1862年)1月のことでした(ドラマでは、松陰が死んで間もない感じで描かれていましたが、実は2年以上も経っています)。このとき、龍馬と玄瑞のあいだでどのような会話があったかは記録が残っていませんが、龍馬が玄瑞から預かった武市宛ての書状には、
 「竟に諸侯恃むに足らず、公卿恃むに足らず。草莽志士糾合義挙の他にはとても策これ無き事」
などと、松陰の「草莽崛起論」に影響を受けた内容が記されており、おそらく、龍馬にも同様の話をしたでしょうね。龍馬が脱藩するのはこの2か月後のことですから、あるいは、玄瑞との会談が龍馬の脱藩に大きく関わっていたかもしれません。

 あと、ドラマで龍馬が言っていた「フレーヘード」とは、松陰が佐久間象山に宛てた書状のなかに記されていた言葉で、オランダ語のようです。ただ、少し無粋なことをいえば、龍馬が何度も口にしていた「自由」という言葉は(前話で松陰も使っていましたが)、のちに福沢諭吉が英語の「Freedom」を訳して作った言葉で、この時期には、まだなかった日本語です。まあ、それを言い出せば時代劇なんて矛盾だらけなんでしょうが、ああも連呼されると、ちょっと違和感を覚えますね。「自由」という言葉がなかったくらい、人々に自由がなかった時代ですから。


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by sakanoueno-kumo | 2015-05-04 02:32 | 花燃ゆ | Trackback(5) | Comments(7)  

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Commented by ZODIAC12 at 2018-09-29 18:34 x
そうそう、記事内でも引用さている、司馬遼太郎の短編集『幕末』の一節は、私も未だに印象に残っています。
この「桜田門外の変」を、暗殺事件の中で唯一の例外として、肯定的に評価してますね。
確かにこの事件が倒幕の直接的なターニング・ポイントになりましたよね。

井伊直弼の政治思想では、新時代を築く事は出来なかったかと思いますが、だからって悪人だとまでは思ってませんし、寧ろ当時の幕閣の中では随一の、文武両道に優れた人材だった事は事実ですね。
井伊直弼はまだ大名(彦根藩主)になる前の部屋住みの身だった頃、国学・禅・茶道・歌道・絵画・能楽・兵学・居合・槍術等をトコトンまで修めたそうです。
だから付いた綽名が「ちゃかぽん」ですから。すなわち「ちゃ」が茶道、「か」が歌道、「ぽん」が能楽の鼓を打った時の音です。

これらは単なる殿様芸なんかではなかったようで。
特に居合では「新心新流」という流派を開き、茶道でも独自の流派を開きました。
武術や茶道で自ら新しく流派を興して開祖になったなんて、かなり異色の大名ですよ。
また狂言作者としての才能もあったそうです。
このように井伊直弼は文化人や武道家として、文句なしに一流の人物だった訳ですよ。
Commented by sakanoueno-kumo at 2018-09-30 13:49
> ZODIAC12さん

わたしも、井伊が悪人だったとは思いません。
ただ、幕府大老という職務をまっとうしただけだと思います。
大老に就任した井伊が孝明天皇の勅許を得られぬまま日米修好通商条約に調印したことが幕末の動乱の導火線となったわけですが、この条約締結は周囲の反対を押し切っての井伊の専横のように思われがちですが、実は、井伊自身は熱心な尊皇家で、ギリギリまで天皇の承認を得て条約を締結すべきだと訴えていました。
しかし、情勢がそれを許さず、やむなく調印を認めるに至ります。
尊皇家としての思想を大老職としての立場が遮ったわけですね。

また、家定の将軍継嗣問題でも、井伊の専横で決まったわけではなく、何より前将軍である家定の意志に基づく決定でした。
井伊の基本的な考え方は、臣下が将軍継嗣などの問題には本来口を挟むべきではなく、あくまで将軍の意思に基づかねばならない、というものだったのでしょう。
その将軍・家定が慶福を強く推しているのだから、井伊にすれば、これは当然至極の決定だったわけですね。
井伊が後世に悪人と位置づけられているのは、多分に薩長史観による印象操作でしょう。
歴史とは勝者が作るものですから。
Commented by ZODIAC12 at 2018-10-01 20:20 x
さすが御詳しいですね!そうですか、井伊にはそういう事情が・・・しかも尊皇家でしたか。

やはり幕府側も維新側も、開国と攘夷の方針の差こそあっても(そんなキレイサッパリ明快に分かれてた訳でもないですが)、「尊皇」という点では一致してたのですね。
TVの時代劇だと井伊直弼は大抵悪役として描かれてますが、それも薩長側を「正義」「官軍」として正当化する為の貶めでしたか。

その「薩長史観」なるものからいい加減脱却すべきかとは思いますが、ここで注意すべきなのは、だからと言って明治維新を単なる「権力奪取だけが目的の、何の大義もないクーデターやテロ行為」などという、愚劣極まりないレッテルを貼る事を慎むべき、という事でしょうか。
近年は明治維新を憎悪し、呪詛する一部のアジテーターたちによって、明治維新の歴史的意義と価値そのものを全否定しようとする、看過出来ないムーヴメントがあります。

拙ブログではそういう近年の動きを批判した記事をアップしましたが。
そこの記事コメント欄に先日、やたらと幕府側を依怙贔屓して持ち上げ、薩長や明治維新を執拗なまでに、不当に扱き下ろしてばかりいる、視野狭窄な訪問者が粘り付いたので、辟易させられましたが(^^;)。
Commented by ZODIAC12 at 2018-10-01 20:23 x
ここらで話は変わって、井伊直弼に纏わる後世の逸話に、次の二点があります。sakanoueno-kumoさんも御存知かどうか。


一点目は井伊直弼の曾孫で、井伊家第16代当主の井伊直愛(なおよし)は、地元の彦根市長となりました。だから「殿様市長」と言われたそうです。

そんな直愛の彦根市長在任期間中の昭和43(1968)年の事。その年で明治維新100周年を迎えた事を契機に、因縁のある水戸と和解したそうです。
と言っても水戸徳川家の当主とではなく、当時の水戸市長と話し合って、彦根市と水戸市の親善都市盟約を結んだとの事です。


二点目は今から5年前の平成25(2013)年の彦根市長選挙での事ですが。

自民党所属の参議院議員である有村治子の弟・有村國知が立候補した時、対立候補の獅山向洋(ししやまこうよう)が、有村家の血統を論って言い掛かりを付けました。
有村家は桜田門外での直弼襲撃の時に参加した一人である、薩摩藩浪士・有村治左衛門の弟の子孫だという事を捉まえて、

「嘗て桜田門外の変で井伊直弼を殺した人間の血縁者が、ここの市長になるなんておかしい。」

「井伊直弼を殺した仇の一族の子孫なんか、彦根市長として認める訳には行かない。」

などとネガティブキャンペーンを張りました。けど地元民からさえも批判されましたね(^^;)。

「何を馬鹿な事言ってんだ!?」といった処でしょうね(苦笑)。
結果はどちらも落選しましたが、選挙戦で対立候補の政策批判ではなく、歴史上の因縁を持ち出したのは極めて珍しい、特異な出来事でしたね(笑)。だから5年経った今でも印象に残ってますよ。

確かに私も、「何くだらない事言ってんだか・・・」と呆れましたけど(笑)、まあその発言の正当性はともかくとして、少なくともこの手のエピソードは内心「ニヤリ」とさせられるので、決して嫌いではないですね。
Commented by sakanoueno-kumo at 2018-10-02 02:16
> ZODIAC12さん

過分なお言葉ありがとうございます。
でも、わたしはそれほど詳しいわけではなく、全て、誰かが執筆された本などから得た受け売り知識ばかりです。
貴兄のお嫌いな司馬さんの影響も多分に受けてますしね。

尊皇といっても、当時の尊皇は戦前の皇国史観のそれとは違い、もっと観念的なものだったと思います。
だから、天皇は尊ぶべき存在ではあっても、従ったり担いだりする存在ではなかった。
ところが、倒幕派の志士たちは、幕府を否定するための代替えとして、京におわす天皇を政治利用したんですね。

市長選の話は、そういえば当時ネットニュースか何かで読んだ記憶があります。
たしかに、何を今さらお門違いなことを・・・と思ってしまいがちですが、でも、彼らにしてみれば、きっと子供の頃から植え付けられてきた感情で、井伊家と有村家の和解は、まだまだ時間が掛かるのでしょうね。
だって、たかだか150年ほどしか経っておらず、高祖父の時代の話ですからね。

以前、信長の子孫として知られるフィギュアスケートの織田信成さんが、TVの企画で明智光秀の子孫の方と対面して握手をされていましたが、あれは面白い企画でしたね。
あちらは400年以上昔の話ですから、先祖の話とはいえ完全に歴史上の出来事になっているのでしょう。
幕末の出来事は、まだ歴史というには浅いのかもしれませんね。
Commented by ZODIAC12 at 2018-10-13 13:18 x
>>貴兄のお嫌いな司馬さんの・・・

私は司馬遼太郎の作品を長編・短編問わず、これまでにほとんど全て読破しています。
その上で、歴史に必要以上に善悪を当て嵌めたり、結果論だけで酷評しがちな当人の姿勢に違和感を感じるのですよ。
特に自身がリアルタイムで生きた、戦前から戦中にかけての時期を必要以上に貶める姿勢が。
それは國體(国体)に関する思想に無関心、と言うよりは嫌悪感を抱いているからでしょう。

そういった事を別とすれば、作品群を読み通して、学校の歴史の授業では教わらなかった事が色々知れて勉強になった事や、娯楽作品としては内容が濃くて結構面白かったと評価しています。
なので司馬作品そのものが嫌いだという訳ではありません。

その他の例で言えば、私は宮崎駿の左翼的な思想信条の側面は嫌いですが、彼の創り出したジブリアニメ作品は好きだというのと同じ事です。



上でも言いましたように、井伊直弼は「文武両道」を体現した、幕閣随一の人物でした。
そんな直弼が討たれたという事は、幕府の「武」の象徴や権威が崩された、という事になります。

これは一種の「軍事政権」とも言える幕府には、致命的とも言える事件でした。
元を質せば強大な軍事力で天下を獲り、天下を支配して来た幕府、そんな幕府の最高権力者(将軍を除いて)が白昼堂々襲撃を受けて討たれたという事は、「幕府は絶対に勝てない存在ではない」「幕府は意外と脆い」という自信が倒幕側に芽生えるキッカケとなりました。
この一件以来、倒幕の動きは加速化しましたので、倒幕維新の大きなターニング・ポイントとなった事件でした。
Commented by sakanoueno-kumo at 2018-10-13 18:49
> ZODIAC12さん

おっしゃる通りで、本文中でも述べましたが、桜田門外の変は、単に井伊大老の独裁を終わらせたというだけではなく、幕府の権威そのものが討たれた事件だったといえるでしょう。
それが、わずか18名の名もなき下級武士たちによって成された。
彼らにそこまで深い意図があったかどうかはわかりませんが、この現実が時勢に与えた影響ははかり知れません。
土井たか子の言葉ではないですが、山が動いた・・・と、全国の尊攘派志士たちに衝撃が走ったことでしょう。
まさしく、そのとき歴史が動いた瞬間でした。

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