花燃ゆ 第20話「松蔭、復活!」 ~イギリス公使館焼き討ち事件~

 『航海遠略策』が長州藩の藩論に採用され、藩の中老に昇進した長井雅楽は、京に赴き公武の周旋活動に奔走していましたが、公武合体派の幕府老中・安藤信正、久世広周が文久2年(1862年)1月に起きた坂下門外の変で襲撃されて失脚すると、たちまち藩内の攘夷派が勢力を盛り返し、長井排斥運動が激しくなります。長井は同年3月に再び上京し、朝廷、公家への働きかけを展開しますが、久坂玄瑞ら攘夷派は弾劾状を藩主に提出するなど、長井の追い落とし工作を強めます。一方で、玄瑞らは朝廷に対して、「長井の主張のなかに朝廷を誹謗する文言がある」などと主張し、長井の立場はいよいよ悪くなっていきます。そして同年6月、藩主・毛利敬親は藩論を『航海遠略策』から『破約攘夷』へと切り替え、長井の役職を剥奪、帰国を命じました。

 前話の稿でも述べましたが、長井の提唱した『航海遠略策』は、後世の目からみればこの時期もっとも優れた見識だったといえます。しかし、政治というのは、機を見るに敏でなければならないんですね。どんな正論を吐いても、それがどれだけ良策であっても、追い風に乗らなければ支持されない。機を見るのを間違えれば、昨日までの英雄もたちまち失脚してしまいます。『大阪都構想』橋下徹氏と同じですね。

 同じ年の10月、孝明天皇(第121代天皇)は勅使の三条実美、姉小路公知を江戸に送り、幕府に攘夷の決行を迫ります。これを受けた幕府は、返答を引き延ばす作戦に出たため、全国の攘夷派の反発はいっそう高まります。そんななか、長州藩内攘夷派の中心的存在となっていた久坂玄瑞、高杉晋作らは、この状況下において、「世間の度肝を抜くようなことをしよう!」という思いを強くします。そこで、彼らは当初、横浜の外国人居留地の襲撃を計画しました。しかし、この計画を耳にした毛利元徳(次期藩主)は、勅使が江戸滞在中であることを理由に、晋作に襲撃を思いとどまるよう説得し、江戸藩邸での謹慎を命じました。

 やむなく、計画を断念した晋作らでしたが、今度は勅使が江戸を離れたあとに実行する新たな計画を立案します。その計画は、江戸の御殿山に建設中だったイギリス公使館焼き討ちするというもの。そしてその実行部隊として御楯組なる組織を作ります。そのメンバーは、高杉晋作、久坂玄瑞をはじめ、井上聞多、伊藤俊輔、寺島忠三郎、松島剛蔵小田村伊之助の兄)、品川弥二郎、堀真五郎ら十数人。顔ぶれを見ると、井上と松島を除いて、他は松下村塾門下生ばかりで、しかも、吉田松陰が目を掛けていた者ばかりです。生前、どんどん過激さを増す松蔭を持て余し気味だった彼らでしたが、結局、その過激なDNAは引き継がれていたんですね。

 ドラマで描かれていたのは実行前まででしたが、この先もいっちゃいます。文久2年(1862年)12月12日、彼らは手際よく計画を実行し、公使館はたちまちのうちに全焼しました。放火後、一目散に逃げ出し、近くの妓楼に登った晋作らは、全焼する公使館をながめながら酒盃を傾け、実に上機嫌だったといいます。結局、江戸幕府はこの放火の犯人を特定することができないまま、やがて瓦解してしまいます。事件の真相が明らかになったのは、ずっと後年、明治政府において栄達した伊藤博文井上馨が、「自分たちが公使館に放火した」暴露したことによります。そのときの彼らは、やはり上機嫌だったとか。時の総理大臣が放火の前科を誇らしげに語るというのもどうかと思いますが、考えてみれば、明治政府初期の大臣たちは、ほとんどが人殺しの経験があるんですよね。そら、肝が座ってたはずです。


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by sakanoueno-kumo | 2015-05-19 21:04 | 花燃ゆ | Trackback(1) | Comments(0)  

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