三木合戦ゆかりの地めぐり その22 ~志方城跡(観音寺)~
ここは、黒田官兵衛の妻・光の生まれ育った城で、現在その本丸跡は観音寺という寺院になっています。
そんなわけで、当然ながらここでも、この看板が迎えてくれました。
今回は看板だけでなく、境内のいたる場所に、てるひめちゃんが・・・。
まあ、光姫の実家ですから、当然の光姫推しですよね。
光姫の嫁いだ黒田家は、播磨国の領主の中でもいち早く織田氏の傘下に入っており、三木合戦の際には当然、羽柴秀吉軍に与していましたが、光の実家である志方城の城主・櫛橋家は、加古川評定の席で秀吉と決裂し、別所氏に呼応して毛利方に与します。
このときの志方城主は、光の実兄・櫛橋政伊。
政伊のもう一人の妹で光の姉にあたる妙寿尼(実名は不明)は、毛利氏の傘下にある上月城主・上月景貞に嫁いでおり、光は兄と姉ふたりと敵対することになります。
戦国時代では珍しい話ではありませんが、光は辛かったでしょうね。
周辺の野口城・神吉城が攻め落とされると、ここ志方城は孤立無援となり、天正6年(1578年)8月10日、政伊はやむなく降伏します。
その後、官兵衛の助言もあって櫛橋家一族のほとんどが黒田家に仕えますが、城主の政伊のその後は、定かではありません。
大河ドラマ『軍師官兵衛』では、潔く切腹していましたが、司馬遼太郎氏の小説『播磨灘物語』では、官兵衛が秀吉に命乞いをし、助かっています。
実際にはどうだったんでしょうね。
寺の敷地内には、櫛橋家歴代城主の墓所があります。
ここも、光姫推しでした(笑)。
光姫はここには眠ってないのにねぇ。
その向こうに見える建物は、志方小学校の校舎です。
この小学校の敷地が、かつての二の丸跡だったそうです。
とにかく、いたるところにみつひめちゃん幟が設置されていました。
中谷美紀さんも訪れたのかなぁ?
さて、次回は秀吉の志方城攻めゆかりの地を訪れます。
「三木合戦ゆかりの地めぐり」シリーズの他の稿は、こちらから。
↓↓↓
三木合戦ゆかりの地
ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
↓↓↓
by sakanoueno-kumo | 2015-06-10 18:10 | 三木合戦ゆかりの地 | Trackback | Comments(0)